南太平洋・パラオ

パラオのナカムラ元大統領の逝去を悼み、心からご冥福をお祈りいたします。(2020年10月9日新聞報道)

あれから20年近くも経ってしまいましたが、ちょっとした縁がありました。2000年に開催された第2回南太平洋サミット(宮崎)の後を受けて、20019月に(911の直後でしたが)フィジーで南太平洋諸国と日本との経済協力について話し合う国際会議が開催されました。各国経済閣僚が参集しましたが、その直前までパラオ大統領であり宮崎でのサミット議長(パラオ)でもあったナカムラ氏がそこに出席されました。私は事務局の一員としてナンディーに滞在中並びに911の後の混乱する航空便の都合で、偶然ナカムラ氏と隣り合わせで成田まで同行しました。

宮城県にいた時によく通った宮城蔵王スキー場近く(遠刈田温泉の先)に北原尾という地区がありますが、そこには戦後パラオから帰還した日本人が「北のパラオ」と名付けて住んでいることを知っていました。そこで、機中でナカムラ氏に北原尾の話をし、皆さんが80歳に達しておられ、生きているうちに一度は故郷パラオを訪ねたいと希望していると話した時、「本当か?」と言ったきり、ナカムラ氏は遠くを見つめるように沈黙してしまいました。今思えば、北原尾の方たちはナカムラ氏のお父さんと同じか近い年齢の方々でした。

 

ナカムラ氏はフィジーからパラオに帰国するのに、乗換地オーストラリアの一時滞在ビザを持たないまま来ていて、シドニーからフィジーに逆戻りさせられたのです。それで次の最も早い便が成田経由だったのです。それで成田まで同じ飛行機の隣同士になってしまったと言う訳です。あの時は91110日ほど後で、世界中の空港や航空会社がピリピリしていました。前大統領にさえオーストラリアがトランジットの1泊もさせず、出発地に戻されたので怒り心頭 でした。我々が後始末をしている23泊を、ナカムラ氏も成田行きまで待たされました。本国で大事なイベントがあったのに出席できなかったようです。だからと事務局にクレームしてもどうしょうもないのですが、とにかくご機嫌が悪かったです。そこに飛行機で隣り合わせですから、私の心情も察してください。だから、あれこれとお話ししたことの一つが、北原尾の話題でした。
9
11の影響で彼にとっては不運でしたが、それにしても南太平洋諸国間の航空便は不便でした。

911直後は航空便は飛んでいました。数日後に海外出張が制限されたのですが、その前にフィジーに向けて出国してしまいました。森前首相とか我が社のトップとか、偉い人も皆その会議のために出国しました。その後直ぐに出国が制限されました。
そのイベントが終わる頃は航空便が制限されたり、そもそも出国できなかったです。出国禁止になる前に出てしまった我々は南太平洋の島で会議準備のために仕事してました。また南太平洋諸国の参加者も予定通りにフィジーに参集しました。会議開始前には航空便が止められることはなかったです。会議の間は心配しても仕方がないのですが、終わった後の帰国便のことが大変心配でした。しかし、皆なんとか予定通りに帰国しました。ナカムラ氏は予定が狂って大変でしたが、成田でお別れしました。彼は成田から南に向けてパラオに帰国されました。

ナカムラ氏は昭和18年生まれ、我々の少し上の兄や姉の世代です。パラオは親日的で、国旗は大洋(青地)に月(黄色)です。日本が太陽なら我々は月だと。その頃のパラオの駐日大使の名前はマサオでした。日系の血は流れていませんでしたが、彼と同じように日本名を付けておる人がたくさんいました。マサオ大使が仙台を訪れた時に、仙台郊外の秋保温泉に行き、彼にとって初めての温泉 に一緒に浸かりました。最初、人前で裸になるのを躊躇っていました。それは1999年のことで、フィジーの島サミットに行く前のことでした。ですから、北原尾のことを話したのはナカムラ大統領に話す2年ほど前に、マサオ大使に話したと思います。

 

パラオのことは、もともとは「山月記」や「李陵」の小説家・中島敦が戦前パラオに住み、「南島譚」として何編か書いていたので知っていました。
太平洋戦争中のペリリュー島の死闘は有名で、激戦の前に日本軍はパラオの全住民を本島に避難させたことでも知られています。平成の天皇皇后両陛下は慰霊の旅の最後にペリリュー島を訪問されました。
一昨日、たまたまここに拝謁してきました。近くの久伊豆神社の一遇に、パラオから移設された「南洋神社」があります。
近日中に、ナカムラ元大統領を偲んで参拝したいと思います。