羅府新報(ロサンゼルスの日系紙)への投稿8回(2004年)

インド・・・変貌する社会と人々の暮らし;(第1回)国際的に見直される大国インド

 

<ビジネス環境の改善と外資導入>

今年の流行語のひとつ‘BRICs’は、インドを世界中の人びとに注目される対象に高めた。同じアジアの国としてインドは中国と比較され、「中国の次はインドか」が特に日本の経済界の関心事となった。200112月のインド国会議事堂襲撃事件以来、印パ関係は危機的状況にあったが、今年はじめに正常化に向けて2国間協議が始められた。また、インドは昨年後半からアジアとの経済関係強化を目指して積極的な外交を展開してきた。昨年10月第2回アセアン・インド首脳会議で包括的経済協力協定が正式に締結され、タイとのFTA協定の枠組み合意がなされ、シンガポールとも交渉中である。中国関係では国境問題など政治的な課題を先ず解決し、将来の経済交流の拡大にも道筋をつけた。

 

5月に国会議員(下院)選挙の勝利によって誕生した会議派を中心とした連合政権は外資導入による経済活性化に取り組む姿勢を鮮明に打ち出している。今年8月にインドを訪問した日本の川口外務大臣や中川経済産業大臣との間で日印間の包括的経済協力協定に向けた共同研究会の設置に合意、10月には韓国大統領の訪問に際して韓国からの投資受け入れを中心とした経済関係緊密化について話し合われた。また、マンモハン・シン首相は9月の訪米時には米国ビジネスマン向けに更なる資本自由化を約束し、11月初旬にはEU・インド会議において外国企業から改善の要求が強く求められていた税制改革に取り組むことを明言するなど、インドの投資環境の改善に取り組むことを明らかにしている。

 

1991年に経済自由化政策に移行した後のインドの経済成長は著しい。独立後の50年代から80年代にかけての数十年間の経済成長率は年平均3.6%であったが、人口増加率を考えれば実質横ばいというのが実感であろう。モンスーン気候の影響による不安定な農業生産が経済成長に大きな影響を及ぼしてきた。それが91年以降は年平均6%を超えている。経済自由化は社会主義から資本主義への無血革命であった。人々は大きな意識改革を迫られた。それ以降は農業が不振な年でも一定の成長率を維持できる構造に変わってきており、第10次5カ年計画においては年平均8%の目標を立てている。最近の動向を見るならば、これはあながち遠い夢ではなく、かなり実現性の高い目標であると言える。

 

<中国とは違う成長モデル>

 

これでインドも中国と同じような経済成長が期待され、次はインドの番だと言えるのだろうか。その前に、インドを中国と比較する必要があるのだろうか。そしてインドに中国並みの経済成長を期待することに意味があるのだろうか。中国は中国、インドはインドであると思うが、当のインド人は中国と比較し比較されることを望んでいると言えなくはない。同じアジアの大国として中国への対抗心は明白である。

しかし、インドは中国と違って民主主義国家であるから、中国のような高成長は実現できない。何事もコンセンサスをとりつつ、資本家や労働界の既得権者の利害を調整しながら政策を進めていく必要があり、いかに強力なリーダーシップをもってしても時間がかかることを意味する。元々インドと中国とは違う。インドの方が恵まれた国土に安定した社会が形成されてきたと思われる。国土面積ではインドは中国の3分の1であるが農耕に適する耕地面積は中国の2倍あると言われており、今もモンスーンによる降雨が安定するか、灌漑が進み安定的な農業生産が実現できれば、大きな社会変革なしに安定的な成長が実現できると考えられる。更なる変革が必要としても、無理に中国的な成長路線を邁進する必要もないし、それはインドの社会的価値を根底から破壊しかねない危険性もある。

 

インド社会の奥深く存在する社会的不公平、大きな貧富の差をいかに縮小し、本来の民主主義的社会を実現するか、それは西欧的価値観からだけでなく、あくまでもインド人自身の改善すべき内なる課題でもある。しかし、今のままでもインドは地政学的にも軍事的にも、あるいは経済的にも重要なアジアの大国である。

 

<核保有国インドに対するアメリカの視点>

アメリカ・ワシントンの視点でインドを総合的に分析し、その重要性について論じたのが『アメリカはなぜインドに注目するのか』(INDIA; Emerging Power)(スティーブン・フィリップ・コーエン著 堀本武功訳 明石書店)である。インドの台頭は本物か、著者は国内的、国際的要因を広く深く分析し、インドの潜在的な活力に着目し、ワシントンもまた昨今はインドを最重要国の一つと位置づけていると言う。

 

 

アメリカでは長年にわたって、「インドは巨大ではあるが無能な国としてとらえられる傾向が強かった」が、こうしたネガティブなイメージは今や払拭されるべき過去のものとなりつつあると、インドの核実験、印パ、印中の関係を乗り越えて、また経済的な躍進を踏まえて、インドを政治的・戦略的な大国として評価している。「かつてアメリカにとってインドは慈善の対象にはなっても戦略の対象にはならなかった」。アメリカにはインドを「重要な国」として考えるグループと、インドの欠陥だらけの社会的・政治的な問題点を指摘するグループがあり、「ワシントンのインドへの評価は正負正反対に分断されていた」。しかし、最近は経済的な関係の緊密化に加えて、両国の外交的な思惑があり(アメリカは対中政策のカードとしてインドに注目している)、特にインドが核保有国になった現在、そして9・11以降のアフガンやパキスタンを巡る国際戦略上も、インドに対する見方を変える必要性に迫られている。インドもまた自国の戦略上、アメリカを「愛憎半々の複雑な気持ち」で見ている。アメリカのインド観と同時に、鏡に映ったインドのアメリカ観を垣間見ることもできる。(以上)

インド・・・変貌する社会と人々の暮らし;(第2回)世界最大の民主主義国家の宗教対立

 

今年の5月連邦議会(下院)の選挙で、6年間(1998年5月~2004年5月)政権を担当した連立与党(BJP=インド人民党を中心)が敗退、会議派(コングレス)が政権を奪還し、91年インドが経済自由化路線に大変換した時の財務相であったマンモハン・シン氏を首相とする連立政権が誕生した。

 

常に現状に不満を感じている貧困層の有権者は「現政権否定」に流れる傾向が強く、だからこそBJP・与党は万全の構えで選挙準備を整え、絶妙のタイミングで選挙を実施したかに見えた。パキスタンとの和平交渉をはじめ周辺国や東アジア諸国との積極的な経済外交の成果や、農業生産拡大を基礎に極めて好調な国内経済をバックに、また昨年末に実施された4州の地方選挙での勝利を見て、絶対に負けないと、選挙の実施時期を半年早めた選挙戦だった。与党に大きな失政があったとは思えない。一方、会議派は内部に外国出身のソニア・ガンディー党首が首相になることに反対を唱える人びともいるなど、選挙中も党内分裂の印象は免れなかった。故ラジブ・ガンディーの長子ラフルが立候補し、ソニア党首を選挙運動の前面に立ててネルー・ガンディー家の存続をかけての選挙戦であった。

 

<インド国民の勝利>

開票が始まって数時間後にはBJPの敗退が明らかになり、バジパイ首相は直ぐに辞任を表明し、大統領に辞表を提出した。「BJPは敗れた。直ちに政権から降りる。選挙はインド国民の勝利であった。敗れたけれど我々は政治から身を引くわけではない。責任ある政党として政治的な責任を果たす」というバジパイ首相の表明は、まさしくインドが世界最大の民主主義国家であることを実感させるものであった。米国大統領選で敗れた側の候補者の弁と同じく、民主主義の本質に迫るものである。しかも、今回に限ったことではなく、インドは1947年の独立以降、常に選挙による政権交代をしてきた成熟した民主主義国家である。与党の敗因は、「輝けるインド」というスローガンにあったと言われている。多くの貧しいインド国民は自分たちは輝きの恩恵に浴していないとして逆効果となった。

 

<電子投票箱の威力>

大国インドは、選挙管理の面(主として警備や運営で)から総選挙ともなると1日で投票を終了させることができない。今回の選挙でも、州毎に投票日は420日から510日までの4回に分け、全国から投票箱が一ヶ所に集められた、5月13日に一斉に開票された。インドの選挙管理委員会は政治的中立を強く意識しており、今回のような総選挙ともなると中央官庁の若手官僚も選挙管理委員会に応援に借り出され、国を挙げて対応している。ここに選挙による政権交代というインドの民主主義を支える原点がある。今回の選挙で注目されたのは電子投票システムの導入で、全国543選挙区の投票所に約120,000の電子投票箱が用意された。そのために今回の開票集計作業は極めてスムースに行われ、開票開始後数時間で結果が判明した。IT大国インドの面目躍如たるものがあった。

 

 

<宗教によらない政治>

独立後のインドにとって民主主義とともに国家の重要なテーゼの一つが政教分離主義である。ヒンズー教徒が82%と圧倒的な勢力を保ちながら、イスラム教12%だけでなくキリスト教2.3%、仏教1%、ジャイナ教1%、シク教2%など様々な宗教が存在するインドは、憲法で宗教によらない国家を目指すこと(世俗主義)を宣言する。政教分離の原則と信教の自由が柱である。

インドの「世俗主義(セキュリアリズム)」に対して、パキスタンはイスラム教による宗教国家の建設を目指した。英国からの独立運動をともに戦ったが、インドから分離して独立した。もしインドが印パひとつの国として独立したならば、国家内に2つの宗教勢力が拮抗し、内線が絶えなかったかもしれない。実際には分離独立した印パは3次にわたりジャンム・カシミールの帰属を巡って戦った。その後も、90年代にはパキスタン側からの越境テロが増大する中で、暫定的な国境線(LOC)を挟んで両軍が対峙している。

 

<ヒンズー至上主義の台頭>

80年代末から90年代にかけて、インド国内では宗教間紛争が多発する。その最大の事件は9212月にアヨーディアのイスラム教のモスク破壊に端を発した大暴動があげられる。アヨーディアはヒンズーの神話「ラーマーヤナ」のラーマ生誕の地として知られ、80年代にヒンズー至上主義が台頭する中で、このヒンズーの聖地にラーマの神殿を建設しようという運動が活発化した。アヨーディアでのモスク破壊によりインドの宗教間対立は頂点に達し、何千人も死亡する事件に発展した。インドは宗教によらない政治を目指しつつ、宗教対立が一触即発の大事件を起こす可能性を常に内包することになってしまった。

 

 

「ヒンズー的価値観を中心とする社会をつくろう」というヒンズー至上主義は宗教的、文化的かつ政治的な運動として80年代に台頭してくる。この時代の政治の特徴はより広範な大衆の政治参加と低位カーストの政治的発言が増大したことであるが、ヒンズー至上主義を標榜するBJPは宗派的対立を梃子に80-年代から90年代にかけて勢力を拡大、そして99年には政権を奪取した。多神教のヒンズー教はもともと包容力のある宗教であるのに、ヒンズー至上主義者はあえて宗教観の対立を必要以上に強調、歴史を捏造しているという声もある。インドには西欧化の流れに対する脅威がある。また、イランに興ったイスラム復古主義の影響がインドのイスラム教にも押し寄せることは必至で、そのために「ヒンズー」を強化する必要性があったという見方もある。2002年のグジャラートでの宗教対立に端を発する大暴動と大量虐殺事件へのBJP政権の対応のまずさは、アヨーディア事件の悪夢を再現させるなど、今回の選挙結果にも大きな影を落とした。     (以上)

インド・・・変貌する社会と人々の生活;(第3回)安定化するマンモハン・シン政権

 

<絶賛されたソニア・ガンディの身の振り方>

20044月―5月の総選挙によりBJPは敗退したが、会議派も絶対多数を得たわけではなかった。543の小選挙区の議席数ではBJP陣営の敗退が明確になったとは言え、会議派陣営の得た得票率は35.19%とBJP陣営の35.31%をわずかながら下回っているのである。選挙後の会議派を中心とする連立政権樹立には、①連立政権の組合せ、②首班指名、③連立政権の政策合意という3つの問題を乗り越えなければならなかった。

 

ソニア・ガンディを前面に出して勝利した選挙であるから、(外国出身であろうが)ソニアが首相になることは国民の総意として合意がなされたものだとして、会議派内はソニアを首班指名することで結集に成功した。反BJPの立場から左翼勢力はソニアの首班指名支持を表明、新政権に閣外協力することを決めた。ウッタル・プラデシュ州の社会主義党は伝統的に反会議派の傾向を有することから連立には加えられなかった。

 

反BJP(ヒンズー至上主義への対抗)という共通項から多数派工作には成功したが、首班指名で大きな波乱があった。ソニアには首相になる資格が当然あると多くに人びとは考えたが、BJPはソニアが外国出身であることを理由に反・新政権の運動を展開することを目論んでいた。選挙期間中には、ソニアの(ラジブ・ガンディ元首相との間に生まれた)息子のラフルの出自にまで疑問を呈するなど、ソニア攻撃が行われた。選挙後も、BJPのスポークス・ウーマンのスワラジ女史は「ソニアが首相になるなら頭を坊主にする」などと対抗心をむき出しにしていた。

 

ところが、ソニアは古くからの盟友、会議派の有力な指導者のひとりである経済学者のマンモハン・シンが首相に就任することを発表した。周囲の説得にもかかわらず、自分は会議派の党首にはとどまるが、(国論を二分する危険性のあるような)首相にはならないと固辞した。ソニアの意思は固く、これはかえってソニアの威信と国民的な人気を高めることになった。BJPはソニアのこの発表で肩透かしを食ったばかりか、前述のようなBJP側のソニア攻撃は見苦しいものだとして国民の反発をかった。BJPは党内で敗戦責任を追及する議論の中で求心力を弱め、その後も惨憺たる様相を呈しているように見える。

 

<左派政党との妥協>

 

5月下旬には会議派を中心に連合政権「統一進歩連合(UPA)」が発足、会議派党首のソニア・ガンディが議長に就任した。直ぐに共通基本綱領(CMP)が作成されたが、この綱領作成に当たって左翼勢力はうまく影響力を行使した。会議派と左派政党は先ず一般原則について合意し、具体的な政策においても迅速に方向性を指し示した。即ち、雇用重視、農村重視、社会的弱者の貧困対策、初等教育の重視、公共部門民営化の見直し、労働者の権利保護、中央と地方との協調的な関係重視、アメリカ偏重でない外交政策の推進などである。このように左派政党の要求を多く受け入れた綱領となった。

しかし、選挙中から多くのインド人有識者は政権がBJPから会議派に移行しても経済政策が大きく変化することはないと言っていたが、これはむしろBJPが1991年以降の会議派政権の経済自由化政策を継承し、よりいっそう現実的に推進してきたという認識があったからであろう。1991年当時は財務相であったマンモハン・シン首相の登板は、政権の交代を越えて経済改革路線が継続されることを内外に示す上で大きな効果があった。

 

連合政権UPAが左派政党の影響を強く受けながらも、マンモハン・シン首相によって財務相に任命されたチダンバラムは90年代に既に財務相を経験しているテクノクラートで経済界の新政権への信頼を高めた。また、国家計画委員会副委員長(委員長は首相)にはモンテク・シン・アルワリアが就任した。同氏は、91年の経済自由化政策に転換した時の財務省次官であり、マンモハン・シン首相の財務相の時のコンビが復活したものである。両者の91年当時の実績から国民各層に新政権の更なる経済改革推進への意欲を印象付けた。

 

このように見てくると、ヒンズー至上主義に基づいて政治活動を展開するBJPに対抗するという共通の敵がいるから現在の連合政権は成り立っているが、首相、財務相、計画委員会副委員長の考えはもっと強く経済改革に取り組む姿勢を見せているように思われる。労働法の改正、資本の更なる自由化、インフラ整備等について、積極的な外資導入を念頭に置いた施策を具体的に展開しようと考えている。官僚や左派政党等の「抵抗勢力」と厳しい鍔迫り合いを演じている。

 

首相、財務相、国家計画委員会副委員長は、左派政党を含めた連合政権の共通基本綱領の視点のさらに何年も先を見据えてこれからの政策を展開しようとしているように見える。即ち、左派政党の支持を失って政治が混乱した挙句に政権を放棄するような事態ではなく、いつか左派政党も従わざるを得ないような政治的実績を作り(あるいは左派政党を切り離しても十分に耐えられるような成果を上げて)、より安定的な政権がより現実的で積極的な政策を取ることが可能となるのを見据えているように思われる。民主主義国のインドは中国のような開発独裁型の高度経済成長路線を取ることはできないと思われるが、コンセンサス社会の良さを維持しながら最大限の効果を上げようという試みなのかもしれない。

(以上)

 

 

 

インド・・・変貌する社会と人々の暮らし;(第4回)新ビジネス・モデル

 

(好調な自動車産業)

最近2年間のインド経済の発展は目覚しいものがある。中でも乗用車(UVMVを含む)の生産台数は、04年度(4月―3月)は前年度比25%増の110万台に達すると見られているが、03年度も前年度比27%増であったから2年間で60%程度増加したことになる。二輪車も04年度は16%増の600万台に達する見込みである。この背景には、好調な国内景気と購買者層の所得増が考えられるが、ローンの金利低下も大きな要因となっている。自動車ローンの金利は年利10%程度に下がってきており、最も低廉な20万ルピー(50万円)程度の乗用車を購入する場合、頭金と月々3,000ルピーを7年間返済することにより自動車が手に入る。ローン会社から求められる雇用・年収証明書ならびに納税証明書を提示できる人々(いわゆるサラリーマン)にとって乗用車は現実に手の届くものになってきた。

 

乗用車は2010年には200万台に達するとされ、ますます増加の一途を辿ることになることが見込まれている。政府の経済計画では今後成長率は年率6-8%であるが、各自動車メーカーは乗用車生産の伸び率はそれを上回る15%前後のなると目論んでいることになる。2年程前からインドから自動車の輸出も始まり、今では生産台数の10%程度を占めるようになっている。現在、インド国内で乗用車を生産している企業は13社である。日系3社で国内市場の半分以上を占めているが、韓国、米国、ヨーロッパ勢にインド企業も加わって厳しい競争が繰り広げられている。最近いくつかのメーカーの増産計画が明らかにされ、さらに新規参入の話も聞く。2010年までに市場は2倍の規模になるとしても、今後ますます競争は激しくなっていくことが考えられる。だから、こんな話も出てくる。

 

(ネガティブ・リストに載っている人々とは? 

「ここに一つのネガティブ・リストがある。これは自社にとって極めて有用だ。自動車市場での販売増を図る上で、金融機関のネガティブ・リストに載っているインド人サラリーマン(Salaried Indians)をターゲットに販売戦略を立てることが可能になった。」「ネガティブ・リストには、以前から民間銀行や外国銀行からは貸金の回収不能な人として分類されている・・・教師、弁護士、警察官や裁判官達が含まれている。この人達を販売先として開発しようと考えている。」 これはある自動車メーカーの販売戦略を紹介した新聞記事(タイムズ・オブ・インディア紙)であるが、これだけで何のことか理解できる人は相当のインド通と言える。

 

 

「もちろん特別なスキームを作る必要がある。先ず、教師を対象に調査した。13,600の機関に聞いたところ28,000の真面目な引合いがあった。試験的に実施したところ3ヶ月で5,000台の販売が出来たが、これは素晴らしいことだ。代金取立て不能の烙印を押され、金融機関にとって関心の埒外にあったこうした人々が、インド最大の金融機関であるSBI (State Bank of India)の優先的顧客扱いでSBIと協力して特別利子の融資制度を用意することができる。更に、このスキームによって、今まで市場として重視されなかった地域(経済的に弱い小都市や北東インド各州)への販売促進に踏み切れるし、このスキームはこれから二輪車や初めて四輪車を購入しようという層の市場開拓に大きな役割を果たすだろう」と紹介されていている。

(何が新しいのか?代金を踏み倒す人々への信用供与)

この話の何がおかしいかと言うと、先ずはネガティブ・リストに列挙されている人々とその職業であろう。教師、弁護士、警察官、あるいは裁判官までもが・・・安定的な収入がありながら、今まで金融機関から信用されていない人達がいるということだ。次に、それは何を意味するのかである。一般に、インドでは物を売っても代金の回収が難しいと言われる。B to B でもB to Cでも、いくら売っても商売の基本は代金を回収してナンボの世界。しかし、インドではなかなか上手く行かない。お金がないから支払えないとは限らない。自分の懐に一旦入ったお金は出さないと言うのがインド人の考え方だ。「ビジネスは一見上手く行っているのに、売上代金の未収で黒字倒産の危険性に曝されている。何回督促しても代金が支払われない」と言う話はザラだ。

 

インドでも最近は住宅や自動車はローンによる購入が普及してきた。ネガティブ・リストに列挙されている人々は社会的な強者で、全てが社会の指導的な立場にある人であるとまで言わないまでも、毎月定収があり、(多分)役得による副収入も相当あると思われる。ネガティブ・リストに載るも載らないも・・・最初から金融機関などに関係ないインドの一般庶民から見ればうらやましい話であろう。それにもかかわらず、むしろそういう強者であるが故に何かと難癖をつけては代金を踏み倒すことを当然としているのだろうと想像される。全部がそうだと言っているわけではないが、一般庶民は皆そう思っている。一般庶民は、金利が2-3倍以上のいわゆる高利貸し(街金融)からしか借りられないから、所得の点からも制度上も最初から市場の埒外にある。

 

ネガティブ・リストの人々は少し値の張る耐久消費財を購入しようとローンを組もうとしたら、まともな金融機関からは断られる。何でもキャッシュで買えるというほど裕福ではないが、全くお金がない訳ではない。だから何らかの信用創出スキームさえ設ければ耐久消費財販売の新たなターゲットになるというのがこの話のポイントである。常識を逆手にとって販路を拡大しようと言う訳だが、金融機関SBIの役割が見逃せない。

 

SBIは、インド全国に9,038の支店、外国にも28カ国に51の支店を有するインド最大の国立商業銀行の一つ。預金量620億ドル、総資産790億ドル、アジアでも上から25位以内に位置するインド最大の銀行である。この信用ネットワークに睨まれたら大変で、(多分)ローン返済が滞った場合はSBIが給与を差し押さえることが出来る、そういうスキームを両者提携して創出したということだろう。それで初めて金融システムの枠外にいた顧客をターゲットにできることになる。インドならでは成り立つ新ビジネスモデルの一つかもしれない。

 

(重要なのは借りたものは返すという常識)

 

ネガティブ・リストに載っているような人もこのスキームによって銀行ローン支払いに関して少し真面目になることが期待できる。しかし、こうまで「苦肉の策」で売らなければいけないのか?ローン支払いのために、社会的強者としての義務や責任を果たすどころか、彼らは特権にアグラをかいて一般庶民に対してもっと悪質に、もっと頻繁に役得を要求するかもしれない。ある日系銀行の関係者は「このスキームは失敗すると思う。彼らは責任を取らない。い。定職があると言っても不安定だ。焦げ付くのは目に見えている。借りたものはキチンと返すという常識こそ重要だ」と言っている。このスキームは低所得者層にも自動車の購買層を広げていく一つの過程と考えた

インド・・・変貌する社会と人々の暮らし;(5) クリケット外交

 

(ムシャラフ大統領のインド訪問)

パキスタンのムシャラフ大統領は416日―17日に、20017月以来約4年ぶりにインドを訪問した。今回の訪問目的は、印パのクリケット観戦とインド首脳とのカシミール対話であった。3月上旬からインド各地で開催された印パのクリケット戦の最終試合(デリー)に合せて訪印したものであるが、クリケットが両国民の友好に大きな役割を果たした。同大統領は印パの分離独立前のデリー生まれで、今回インドから記念に出生証明書が贈呈されたという。また、それに先立ち大統領の実母と息子がインド各地を訪問し、クリケット交流とともに友好促進に一役買った。

 

前回2001年はタージマハ-ルで有名なアグラでの首脳会談により和平ムードが広がったものの、9・11以降世界情勢は急転し、特に中東からインドまでの地域は激動の波に洗われた。12月中旬、インド国会議事堂がテロリストにより襲撃されたことから印パ関係は悪化し、20025月ー6月には核戦争勃発寸前まで緊張が高まった。両国が関係正常化の方向性を模索するようになるのは2003年秋で、公館の再開、航空路の再開、デリー・ラホール間のバス運行再開等々と緊張緩和を徐々に進め、20041月イスラマバードで開催された南アジア首脳会議(SAARC)にバジパイ前首相が出席した。その後、インドはマンモハン・シン首相率いる新政権に移行したが、緊張緩和の方向性はますます確かなものになり、今回のムシャラフ大統領のインド訪問が実現した。

 

(カシミール問題が大きく進展)

 

ムシャラフ訪印直前にカシミールで友好のシンボルとなるバス運行を妨害する動きがあった。このように緊張緩和を妨害しようという反対派の動きは常に勃発する可能性があるが、両首脳は「平和プロセスは変わらない。これを妨害するテロには徹底抗戦する」ことを宣言して、協力関係の一層の緊密化を表明した。特に2国間の最大の懸案事項であるカシミール問題について今後とも首脳レベルでの協議を続けていくことを確認している。また、国境経由するトラック輸送の開始、相互にムンバイとカラチに通商代表部の設置、イランからパキスタン経由でインドに通ずるガス・パイプライン敷設に関する協議開始などが合意され、マンモハン・シン首相はパキスタン訪問の招待を受諾した。南アジア地域では印パ両国の良好な関係が地域全体の政治的安定と発展をもたらす前提であり、今回の印パ首脳会談の成功は南アジア地域の経済発展を加速させるものと期待されている。

(英国の遺産)

さて、話題をクリケットに戻す前に、インドを植民地として支配した英国の遺産は英語、鉄道、官僚機構だと言われるが、それらについて簡単に紹介したい。いずれもインドを統一国家として支える重要なファクターである。英語は、多言語、多宗教、多民族のインド国民の共通語として広く使用されている。準公用語として特に法令や法廷用語は他の公用語に優先するとされている。また、英語が世界中でインド人に活躍の場(例えば、国際機関やITソフトウエア分野)を与えている。次に、鉄道は総延長距離65000キロに達し、インド全土を網の目のように縦横に結んでいる。インド国鉄の従業員は300万人とも言われ、インド国内最大の産業である。国内物流や人々の移動に鉄道の果たしている役割は大きい。

 

次に、インドを統一国家として機能させているのは強固な官僚機構の存在だと言える。英国統治の歴史を継ぐ官僚機構インディアン・アドミニストレーション・サービス(IAS)と呼ばれる高級官僚への狭き登竜門を通るには厳しい競争を勝ち抜く必要がある。大所高所の見地に立ち国益を最優先する誇り高き優秀な官僚が、広大で多種多様なインドを一体的に運営している。英国の植民地支配によりインド人が歴史的に失ったものは大きい。それ故にかつての屈辱的な外国支配を絶対に繰り返してはならないとの思いが強く、時に外国製品や外国企業に対する警戒感は対外的閉鎖性を生じさせた。硬直的だと時に悪名高いインドの官僚機構ではあるが、独立インドの求心力として今もその存在は重要である。

 

(クリケットは最大の財産)

しかし、印パ両国にとっては共通の国民的スポーツとして友好促進に貢献しているクリケットこそ英国の遺した最大の財産であるかもしれない。日本人には余りなじみのないクリケットであるが、インドではちょっと空き地があると子供達はクリケットをする。国民生活の一部をなしている。学校でも地域でもチームがあり、日本の野球と同じように人々を熱中させる。テレビのスポーツ番組はクリケット中心で、クリケットの有名選手の年俸は高く、また広告出演料も高額だ。貧しい子供達が憧れるスーパースターである。

 

 

クリケットのワールド・カップは4年毎に開催されている。前回2003年はオーストラリア、バングラデッシュ、英国、インド、ニュージーランド、パキスタン、南ア、スリランカ、西インド諸島、ジンバブエ、カナダ、オランダが参加、決勝はハネスブルグでインドとオーストラリアの間で争われた。人々はラジオの実況放送を聞きながら、時々大きな歓声を上げている。数年前に発表された人気俳優アーミル・カーン主演の映画「ラガーン」は、インド人の農民チームが厳しい練習の末に筋骨逞しい英国人エリート軍人チームを打ち負かすというストーリーである。植民地時代の苦しみを乗り越えて躍進するインドの姿を映し出したもので、インド人の胸を熱くした爽快な後味の映画である。爽快と言えば、ムシャラフ大統領を招いて観戦したマンモハン・シン首相は、自らのポケット・マネーでチケットを購入したことだ。一般庶民は長い行列を待ってもチケットを購入できないほど人気が高い試合に、特権で無料観戦してはならないという爽やかなニュースであった。

インド・・・変貌する社会と人々の暮らし;(第6回)モータリゼーションの興隆の陰で

 

最近、スズキのインド現地法人マルチ社が操業以来の乗用車工場出荷台数500万台を記録した。1980年代中ごろに生産を開始して約20年で累計500万台を達成したものだが、400万台から500万台目の100万台は2年程度で達成した。マルチのマーケット・シェアは約50%であるが、近年インドでは各社とも急速に生産台数を伸ばしており、インドの乗用車生産は2004年の106万台から、2010年には200万台に達すると見込まれている。二輪車は、2004年に620万台、2010年には1,000万台に達すると予想されている。

 

インド全体の乗物(乗用車、バス、トラック、三輪車、二輪車等)の現在の登録台数は全体では6,000万台に達すると見られる。そのうち乗用車の登録台数は1,000万台程度と推定されるが、数年以内に2,000万台に達する勢いで、その時には乗物全体では1億台に到達することになる。驚異的な伸び率である。数年前と比べると、乗用車の車種は多様化している。中央政府や州政府の駐車場では独特のデザインのアンバサダーをまだ多く見かけるが、最近はマルチ、ホンダ、トヨタ、ヒュンダイ、タタなどの乗用車が目立つ。インドの経済はモンスーン型農業への依存から脱し、最近は徐々に製造業のウエイトを増しているが、自動車産業の興隆はその象徴である。家電製品やオートバイなどの耐久消費財の購買層も急速に拡大している。

 

<交通渋滞と運転マナー>

しかし、急速なモータリゼーションは都市の交通渋滞と環境汚染とを巻き起こしている。最近は、デリー、ムンバイ、コルカタ、バンガロール、チェンナイなどの主要都市では交通渋滞がひどく、道路や都市交通システムの整備が喫緊の課題となっている。環境規制が厳しくなっており、今年4月からEUROⅡに該当するBharatⅡ基準に合致しない新車登録は禁止された。数年前にデリーではタクシーやバスのディーゼル・エンジンはCNGに転換された。緑色の車体に黄色の天幕シートの三輪車(オートリキシャ)が車列の隙間を走る。これは、排気ガスの減少を目的に、タクシーやバスの燃料がCNGに強制転換された時に、燃料転換した証の色である。CNG転換によるデリーの空気の清浄化は世界の大都市の注目を集めている。それに比べ、交通渋滞対策は遅れている。

 

外国人旅行者は、先ずニューデリーの交通事情に度肝を抜かれる。各種の乗用車やオートリキシャにバスや大型トラック、オートバイやスク―タ、自転車やリヤカー、そして人と牛と犬と、ありとあらゆるものが路上をうごめいている。バスの粗暴な運転に危ない目に遭うこともある。でも、こんなことで驚いてはいられない。一旦オールド・デリーに足を踏み入れれば、その混沌とした様子は一段と激しさを増す。

 

 

驚くのは、車線に関係なくどの車も少しでも隙間があるとクラクションをかき鳴らして割り込んで前に行こうとすること、安全確認もなく平気で主要道路へ侵入すること、そして極めつけは「逆走」である。中間分離帯のある道路で、真正面から逆走してくる車がいる。そんなことはありえないこと思っていると、目の前に一気に車が現れる。近道とあれば交通規則も関係ない、逆走もヘッチャラである。フェンダーミラーを閉じている車が多い。後ろは見ない。ただ前だけ向いて、左右から突然現れる車や自転車や擦り寄って来るオートバイを避けながら運転する。ゲームセンターのドライビング・ゲームのようだ。

<信号無視の原因は>

深夜や早朝に信号を守る車は皆無に近い。昼間でも信号無視は常識だ。交差点で信号が赤なら止まるのが常識であるが、なぜインドでは守られないのだろう。交通警官が少ないからとか、例え警官に捕まってもワイロで目こぼしをしてもらうからとか、(信じられないが)何のために信号があるか知らない運転手が多いとか、いろいろな理由が挙げられる。しかし、信号機が正常に作動しない、あるいは停電で信号が動かないことも多いから、信号は頼りにならない。そういうことを何回か経験するうちに自然に信号を守らなくなったのかもしれない。交通教育は緊急課題であるが、道路の標識、信号の整備など行政サイドが行うべきことも多い。

 

しかし、人間の感性とは相対的なもの、「さすが大国インドの首都ですね。デリーの道路は整然としており、道も広いし、歩道もあって、車の運転も秩序正しい」と言われたことがある。皮肉を言うようなタイプの人ではなかったが、これほどの皮肉はないと思って聞いたら、それは冗談ではなく、その人はダッカやカラチの後にニューデリーに来た時の感想だという。世界にはもっとひどいところもあるが、インドでは道路建設や新都市交通システム建設は遅く、交通渋滞は大きな社会問題になっている。デリー・メトロ(地下鉄)の建設は計画を上回るスピードで進んでおり、今のところインドで唯一の希望の星であるが、渋滞解消に効果が出るかはこれからの課題である。ムンバイ、バンガロール、コルカタでも地下鉄やモノレール建設が計画されているが、早く着工しないと交通渋滞の悪化に間に合わない。

 

<路上の自由と民主主義>

インド滞在の長い、ある日本人ビジネスマンは「インドにいると自由だ。日本に帰ると息が詰まる」と言う。インドでは周囲の人の目を気にすることなく好きなことが出来る。どんな大音響でパーティをやっても隣近所から苦情は来ない。夜中であろうが、朝方までであろうと自由だ。お互いに苦情は言わない。どんな服装で歩いても誰も気にも留めない。インド人が順番待ちの列へ割込むのも、腹は立たない。たまには自分でもする・・・と言う。ここまでインド社会に同化できたら、インドでの生活は快適なのかもしれない。

 

車の運転だって、ぶつけると面倒だが、ぶつからないかぎり自由だ。クラクションを鳴らし、自分の主張を押し通そうとする。そして、運転手はぶつかる寸前、ギリギリのところで譲り合う。もっともそうでなければ事故だらけだが、最後は優雅に譲り合う。そして後ろは振り返らない。たまにぶつかって何やらもめている光景に出会うが、少しくらいのことなら挨拶するだけだ。政府統計では、2002年の事故発生はインド全国で407,500件、交通事故の死亡者数は85,000名である。死亡事故は二輪車によるものが多いが、あの運転マナーだし、申告されていない事故は3倍以上ありそうだ。

 

 

運転がお互いのコミュニケーションだとすれば、最低限のルールを守りながらよくコミュニケートしていると言うべきか、あまりにもでたらめ過ぎると言うべきか、判断に迷う。事故死の数を見る限りあまりにも犠牲者が多すぎるが、トラック、バス、乗用車、オートリキシャ、バイク、自転車、人、牛、犬・・・大きいものから小さいものまで、スピードや強度の違うものみんなが同等に同じ路上で一票の権利を主張し、自由と民主主義を実践しているようだ。

インド・・・変貌する社会と人々の暮らし;(第7回)過酷な生活環境の中で自己責任で生きる

 

事務所の入居しているビルのエレベータ内にCaution;Travel in a lift at your own risk”と麗々しく注意書きが掲げられている。何を注意しろと言うのか?「落ちても知らないぞ」という意味であれば、なんと乱暴な話ではないか。管理責任を回避しようとして、かえって重い管理責任を問われるだろうと思う。だから初めて訪問して驚く来訪者には、そんなことはない、せめて「強盗に注意」とか「痴漢に注意」という意味で、ビルのセキュリティ問題は別として、エレベータの管理人は強盗や痴漢の責任は取れないと言っているのだと説明している。ところが、数年前にニューデリーに駐在していた某商社のOBは、入居していたビルのエレベータが2-3階ドーンと落ち、一瞬身体が宙に舞ったという。冗談ではない。それからというもの、じっと注意書きを睨みながらエレベータに乗っている。幸い今のところ無事生きている。

 

出張からデリー空港に着くと、迎えの運転手に「何か変わったことはなかった」と必ず聞くのが慣わしになった。何もないと聞くと、留守宅も事務所も出張の間に何事もなかったことにほっとする。身の回りで毎回何かが起こっていてはたまらないが、3年半もニューデリーに住んでいるといろいろなことがある。①家で眠っていた運転手の甥と姪が毒蛇にかまれ、一人は死亡、一人は生死の境をさまよっている。②使用人の長男が混みあった通勤電車のドアのない出口から押し出され線路に転落、そこに反対車線に電車が入ってきて両脚切断の重傷を負った。③自宅で一人留守番をしていた23歳の長男が帰宅したら感電死していた。④バスの中でスリに遭ったが、視線が合ってしまった後で、ドアのない走っているバスの出口から蹴落とされ、脇を通過した車に危なく轢かれるところだった等々である。

 

こういう事故や事件が起こった場合、インドでは誰がどのような責任をとるのだろう。全ての場合において、インドでは誰も責任を取らない。運が悪かった、死んでしまえば今さら責任を追及しても仕方がない、と考えるのだろうか。毒蛇が家に上がって来るのを防ぐことはできなかった。運が悪かった。これはどこにも怒りをぶつけようがない。通勤電車やバスのドアが開けっ放しなのは、インドではどこでもいつでもそうしている常識で、最初からドアを外して走っているバスも多い。鉄道会社もバス会社も責任はない。スリは警察が取り締まらなければならないが、バスのドアとは関係ない。感電については電気の質が悪く、電圧が大幅に上がったり下がったりするのは常識だから、自分で気をつけるより仕方がない。電力会社を訴えても、普通では相手にしてもらえないだろう。

                                          

 

 

羅府新報 第8回(5・11)

インドは内外で大きく変貌する兆しを見せています。

 

2004年早々から、パキスタンで開催された第12回SAARC(南アジア地域協力連合)首脳会議では、次の2点が大きく注目されます。一つは、印パ二国間問題です。20017月のインド・アグラでの印パ首脳会談以来2年半ぶりに印パ首脳会談が実現し、それにより印パ二国間協議が2月から正式に開始されることになったことです。二つ目は、SAARC加盟国7カ国によりSAFTA(南アジア自由貿易地域)実現のための枠組み協定が調印されたことです。

 

200112月のインド国会議事堂襲撃事件以来、核保有国である印パ両国は一触即発の非常に危険な緊張関係(特に20025-6月)にありましたが、昨年4月のインド首相の正常化呼びかけ以来、ようやく包括的な二国間協議が始められるところまで関係改善を果たしたことはこの地域の安定にとって極めて重要なことと思います。また、SAFTAは、20061月からの関税率引き下げの実施を目標に、加盟国各国の閣僚級行政機構の設立や域内貿易摩擦裁定等の枠組みの具体化を目指していくことになりました。

 

インドのアジア各国との関係では、200310月第2回アセアン・インド首脳会議で包括的経済協力協定が正式に締結され、同じく10月にはタイとのFTA協定の枠組み合意が、20043月から関税引き下げの「早期実施スキーム」が両国の協定の実現性をさらに高め、注目されています。自動車・同部品産業が最も大きな影響を受けることが予想されることから、日系企業を含む関連業界は早速その対応を検討しています。

 

シンガポールとは、20034月に包括的経済協力協定に関する合意宣言に調印、10月には両国はFTAに合意、2004年早々に枠組み合意が締結されることが明らかにされています。昨年はまた、中国との関係改善も大いに注目されました。先ず政治的な課題を解決し、将来の印中経済交流の拡大にも道筋をつけています。また、最近は印中、印韓の貿易額が大幅に伸びているのが注目されます。

 

このようにインド政府はアジアとの経済関係強化を目指して積極的な外交を展開していますが、今まで政治主導で進められており、民間業界団体は事前に意見を求められることもなかったと言われています。タイとのFTA合意を受けてインドの自動車部品工業会(ACMA)はタイに使節団を派遣し、両国自動車部品工業会は相互に協力していくことを確認しています。このように民間業界団体も積極的にFTAのメリットを探って行こうという動きが見られるようになっています。

 

 

経済改革に向けて、インドは国内に多くの問題を抱えています。国営企業の民営化は進まず、外資導入を阻害する制度やインフラ整備の遅れ、旧態依然とした労働法等々、インドは今後国祭競争力を向上させていくためには改革しなければならない問題が山積しています。インド政府首脳は、国内の様々な問題解決の必要性を痛感していながら、国内の諸勢力の利害調整からなかなか改革が進まないのが実情でした。アジアでの積極的な経済外交は国内の守旧・抵抗勢力に対する政府首脳の政治的メッセージではないかと思います。

 

2004年は選挙の年です。一時は秋の実施の可能性が高かったのですが、昨年12月の主要な州議会選挙で勝利した与党連合とBJP(インド人民党)は、余勢を駆って国会下院議員選挙を4-5月に早期実施します。インド大蔵省は18日、大幅な税改正を発表しました。このような措置は例年2月末に新年度予算案発表時に通常行われるのですが、選挙前の与党側の政治的判断として、また前倒し選挙実施のために新年度予算が数ヶ月間暫定予算となる可能性が高い等から、大蔵省が独自の判断で税制改革を前倒して実施するものと考えられます。連立政権(与党NDA)は、小売業への外資参入を26%まで認めるという選挙公約(マニフェスト)を発表するなど、大いに注目されています。

 

この中で、関税、物品税の引き下げ、所得税手続きの簡素化等が発表されています。関税の最高税率を25%から20%に引き下げること、また従来から内外で大きな議論になっていた特別付加税4%を廃止する等々が、発表の翌日には適用されることが明らかにされています。このような措置を積極的に打ち出してくる背景には、2003年はGDP8%を超えるという好調な国内経済と昨年12月に外貨準備高がついに1,000億ドルを超えるようになるなど、インド政府が経済改革を進めるうえで今が絶好の機会と考えているからではないでしょうか。その後もいくつかの改革案が矢継ぎ早に発表され、2004年度予算は新政府発足後の5月成立というスケジュールになっています。

 

20008月の森首相の訪印ならびに200112月のバジパイ首相の訪日以降、他のアジア諸国との政治経済関係の緊密化に比べて最近2年間日印関係は無風状態が続いています。今のところ日印がFTAについて直接話し合うような状況にないのは事実かもしれませんが、インドとアセアン(タイ、シンガポール等)との接近が、特にアジアに進出している日系企業にインド市場を再認識する契機になっているのは事実で、このことはアジアにいるから肌に感じて理解できるものだと思います。今年は首脳外交が日印間の外交スケジュールにのってくる可能性が言われています。日印関係も大きく変わることが考えられます。

 

 

「変わらないインド」、それでも「遅々として進んできたインド」ですが、インドならびに南アジアは今世界に注目されるような大きな変化の兆しを見せています。


デリー日本人会婦人部会報への投稿(インド本の紹介)

ンド本(ぼん)紹介(200352日)

 

1、カルチャーショック11 「インド人」

ギーターンジャリ・スーザン・コラナド 著、小磯千尋、小磯学 共訳

河出書房新社 本体 2,500

 

 

インドとは何か?インド人とは誰か?インドは、人口や広さやその多様性からヨーロッパと比較される。ヨーロッパとは何か?ヨーロッパも、その中に様々な国、民族、言語があり、織りなす長い歴史をもつ「小宇宙」だが、日本人は豊富な情報にも恵まれて「ヨーロッパはこんなところだ、ヨーロッパ人とはこういう人たちだ」と理解したような気がしている。あるいはそれは理解したいという願望なのだろう。

 

一方、インドについては、頭では同じアジアの国であると分かってはいても、なんとなく理解を超えた「別世界」として、多くの日本人はインドを理解しようという願望を自ら拒否しているように思える。インドは広すぎる、インドは分かりにくいと最初から自分に言い聞かせてしまう。そのようなあなたにこの本は「インドとは何か?」をきめ細かく紹介してくれる。

 

さて、インドとは何か?著者は「あまりにも雑多で変化に富んでいるところが、一方で厳然として存在している統一性を覆い隠してきた」というインド独立後の初代首相ネルーの言葉を最初に紹介しているが、この「統一性」を当のインド人はどのように理解しているのだろうか?インド人自身はインド人であることをどのように考えているのだろうか?それをどのように異文化圏に育った外国人に説明するのだろうか?

 

著者は南インドに生まれ、インドとカナダで育ったという。インド全域を旅行し、インドの古典舞踊の研究家であるとともに自身がダンサーでもあり、ドイツ人ジャーナリストと結婚、2人の息子がいるという。インド人としての目と外国人の視点を兼ね備え、我々外国人が抱く様々な疑問を、生活や旅行の時に見たり感じたりする身近なことからやさしく紹介してくれる。幅広く、簡単には言い表せないテーマであるが、学術的な研究論文とは違い、著者の説明は簡明で日本語の訳文も読み易い。カルチャーショック・シリーズと言うけれどキワモノではなく、内容は豊富で、写真や絵も多く、インドを詳細に紹介している。

 

インドの「統一性」を理解することは、はじめは困難に感じられるとしつつも、著者は外国人の理解を促すために、インドを実に様々な切断面から解説している。それらは歴史、宗教と世界観、家族と社会、言語、旅行、暮らしの極意、料理、文化・芸能、メディア等々と広範囲にわたり、更に「ビジネス」の心構えまでアドバイスしてくれる。読後に、総体としてインドという観念が概ね理解できたように感じる。

 

著者は最後に「とにかく、インドではなにをするにも時間がかかることを覚えておこう。能率を重んじることが直接的な解決策とは限らない。(本文中にも様々な問題が紹介されているが、気候やインフラ等の問題に対する)忍耐こそが大切だ」とアドバイスする。これはよく聞くありきたりな言葉だと思うが、「時間とともに仕事がうまく進むようになったと感じ、自分の仕事の仕方が変化していることを発見するだろう。しかし、それはインドが変わったのではなく、自分自身が変わったのだ」と述べている。著者の言葉に、やはりこの著者もインド人だったのだと、インド人の誇り高さを思い起こされてしまう。

 

さて、あなたはインドに生活してどのくらい自分が変わったかな?毎日いろいろと不平不満を言いつつも、インド生活をそれなりにエンジョイしているならば、悠久な時間の流れに身を任せ自然体で生きられるようになったと、(著者の言うように)自分自身が変わったことを、素直に喜ぶべきだと思う。(斜視正視)

 

 

2、「インドな日々」、「インドな日々②」

  流水りんこ著

  朝日ソノラマ  本体(各々) 676

 

 

長年バックパッカーとしてインド各地を旅し、ケラーラ生まれのインド人男性と結婚し、日本で家庭を持ったマンガ家の過去、現在の実話。駐在員生活とは違う様々なインド経験をマンガで紹介している。わかりやすい、しかしあまりにも赤裸々なインド物語。作者のインド生活と夫のニッポン経験を紹介するユーモアあふれる語り口から、作者のインドへの愛情がたっぷり。

 

 

 

インド本(ぼん)紹介②

 

1、「インドを知るための50章」

重松伸司、三田昌彦 編著

明石書店 本体 1,800

 

この書店の「・・・・を知るための・・章」と題のついたエリア・スタディーズ・シリーズの一冊である。同社はインドや他の南アジア各国の人々や社会に関する書籍を多く出版している。

 

本書はインドの基本的なことを、国の概要、現代政治、経済の変化、社会の変化、科学と技術、宗教・大衆文化、環境問題、歴史社会という主題別に大きく区分した上で、50項目を選んで説明している。各章は3-4ページの構成であるが、この複雑怪奇な大国インドを50章でどの程度語れるのか?詳細は語りつくせないのは当然かもしれないが、「インド豆知識」というレベルの内容の本ではない。編著者たちは、単なる歴史的な事項の解説ではなく、大きく変貌を遂げつつある現在のインドについて、インドとビジネスをしようとする人々にとっても参考になるように各章のテーマを設定し、各分野の専門家が各章を分かりやすくまとめている。

 

「はじめに」で述べられている ①インドの「生活世界」を解説、②現代のインドに近い内容と「変化」を重視、③理論や論争の詳細は避け、「事実を分かりやすく」説明する、という趣旨は十分に達成されている。一つ一つのテーマの説明が簡明であるからかえって読者の想像力を膨らませる効果があり、読者に出来るだけ多く現代のインド事情の理解を促すために、理解の糸口を提供しようとする目論見はうまく成功していると言える。

 

例えば、最後の「インドの歴史社会」では、アヘン戦争とインド、ベンガル湾世界、サントメ(聖トーマス)・・・と、いくつかの歴史的な話題の後に「インドのアルメニア人社会」が紹介されている。インドは歴史的には移民を出すだけじゃなくて移民を受け入れてきた社会で、何故かカスピ海と黒海の回廊に位置する遠くアルメニアから人々が移り住んでインドに定住し、1960年代には6,000人ものコミュニティを形成していた。そして、インドのアルメニア系の人々が、今は世界各地で広く活躍していることを知ることができる。時間と空間を越えて移動する民族のダイナミズムを感じると同時に、歴史が過去のことでなく現代に通じていることを実感し、筆者はしばし沈思黙考することとなった。

 

 

 

 

2、「アジアの菜食紀行」

  森枝卓士 

  講談社現代新書  本体 640

 

同じ著者の「カレーライスと日本人」(同新書 660円)は1989年に出版されている。今回紹介する本書も1998年の発行であるから、既に読まれた方も多いかもしれない。

 

インドに住んでいる日本人としては、前作では特にインド・カレーの種類、日本でのカレーライスの起源、あるいは日本にカレーを紹介したイギリスで今カレーはどのようになっているのか、他のアジアのカレーとどう違うのか等々について、足で取材を重ね、具体的に紹介されていて興味が尽きない。この「アジアの菜食紀行」も、我々にとっては簡単には理解しがたいインドの菜食主義者(ベジタリアン)のことを手始めに、中国、ベトナムの菜食主義、日本の精進料理等々にまで言及し、そもそも菜食主義とは何か、各地の事情をよく調べて、面白く紹介している。

 

 

3、「キターブ」(第7版):インド関係出版物リスト

  インドの魅力を発掘する会:今西創一郎 編集・発行責任

  問い合わせ先: (財)日印協会 本体 1,700

 

  キターブとはヒンディー語で「本」である。1940年頃以降に日本で出版、市販された「インド本」の中から一般的文献に重点をおいて2,955点の本(あまり専門的なものは割愛)が、分野別に網羅されている労作である。書名一覧(50音順)、著者・編集者順の索引もあり大変便利。1983年東京で開催されたインド祭を記念して発行された第1版は660点が収録されていたが、200110月に第7版を発行した時には約3,000冊になった。毎年多くの書物が発行される中で、インドについてもかなりの数の本が新たに出版されているので、今後も継続的に編集・発行されることを期待したい。

 

「キターブ」には、書名、著者・編集者(訳者)、体裁、出版社、発行年、価格が紹介されていて、本のリストを見ているだけでイマジネーションが湧いてくる。ちょっと変な言い方かもしれないが、「インド好き」の自分がインドの何が何故、どのように好きなのか知る上で、あるいは「インド嫌い」なあなたもきっと興味のある本をいくつか見つけて、心の中にきっとある「インド好き」の種子を見つけるのに役立つかも知れない。(斜視正視)

 

 

インド本(ぼん)紹介③

 

1、「アメリカはなぜインドに注目するのか」(INDIA; Emerging Power

スティーブン・フィリップ・コーエン著 堀本武功訳

明石書店 本体 2,980

 

現代南アジア研究者として著名な著者が、アメリカ・ワシントンの視点で、インドを総合的に分析している。アメリカでは長年にわたって、「インドは巨大ではあるが無能な国としてとらえられる傾向が強かった」が、こうしたネガティブなイメージは今や払拭されるべき過去のものとなりつつあると、インドの核実験、印パ、印中の関係を乗り越えて、また経済的な躍進を踏まえて、インドを政治的・戦略的な大国として評価している。

 

「かつてアメリカにとってインドは慈善の対象にはなっても戦略の対象にはならなかった」。アメリカにはインドを「重要な国」として考える楽観グループと、インドの欠陥だらけの社会的・政治的な問題点を指摘する悲観グループがあり、「ワシントンのインドへの評価は正負正反対に分断されていた」。しかし、最近は経済的な関係の緊密化に加えて、両国の外交的な思惑があり(アメリカは対中政策のカードとしてインドに注目している)、インドもまたアメリカを自国の戦略上の問題に絡め愛憎半々の複雑な気持ちで見ていると言う。アメリカのインド観と同時に、鏡に映ったインドのアメリカ観も見える。

 

インドの台頭は本物か、著者は国内的、国際的要因を広く深く分析し、インドの潜在的な活力に着目し、ワシントンもまたインドを戦略的に極めて重要な国であると認めている。アメリカがインドを戦略的に最重要国の一つと位置づけているのに対し、日本とインドの関係は疎遠だ。日本はインドをどう位置づけて戦略を構築して行けばいいのか。もとよりアメリカに追従する必要などないとは言え、多くのことを考えさせられる。

 

2、「不可触民と現代インド」

  山際素男著

  光文社新書  本体 700

 

  「中国と並ぶ世界最大の市場インドと喧伝され、IT革命のチャンピオンなどともてはやす人びとも出てきた。現象的にそういう変化の恩恵に浴している階層も生まれているが、全人口の85%といわれる底辺インド民衆は果たしてその恩恵を享受しているだろうか?現実はその方向に進んでいるだろうか?」という疑問から、あらためて民衆を見直そうと、著者(「マハーバーラタ」の訳者として知られる)が2002年の暮れから数ヶ月にわたって各地でインド民衆を代表する人々の声を聞き、まとめたものである。

 

「この国の本当の主人公は誰か」。3000年のブラーミンを頂点とする支配体制に対して、国民の85%を占めるダリット民衆は、誰がこの国の主人公であるべきかを明瞭に自覚しつつある。大きく変化するインド社会の中で、こうしたインド最底辺の民衆の中に新たに誕生した意識の高い、目覚めた人びとは自分たちの目指す社会とは何かを厳しく問い直している。それに対して上位3カースト(15%)の支配階層は危機感を抱き、ヒンズー至上主義(「カーストは自然な人間社会の姿であり、非人間的な制度ではない」という)の強化で体勢を立て直そうとしていると著者は言う。

 

  ガンディーは不可触民をハリジャン(神の子)と呼んだが、憲法起草委員長アンベ―ドカル博士は、ではブラーミンはなんと呼んだらいいのか、「悪魔の子」とでも呼ぶべきなのかと、ハリジャンという呼称は最悪の悪ふざけだと反発した。映画「ガンディー」の中では意図的に捨象され、ガンディーが全インド民衆の英雄の如く描かれているが、アンベードカルにより始まった「不可触民の戦い」は今に引き継がれ、それはヒンズー上位階層にとってイスラムより深刻な問題だ。インドの歴史を3000年にわたり捏造してきた根本的な矛盾に目覚めた最底辺の人びとはこれからどう生きていくのだろう。危険な「暗黒時代(ファシズム)の再来」もあり得ないことではないと、著者は警鐘を鳴らしているが。

 

  カンシ・ラムが1978年に創設したバムセフ運動とその現状、日本人僧バンデージ・ササイ(佐々井師)の活動、インド史上初の不可触民出身の女帝・州首相(20039月に退陣したUP州マヤワティー女史)の話など、どれをとっても興味が尽きない。

 

3、「インド・旅の雑学ノート」(驚愕編)

  山田和著

  ダイヤモンド社 本体 1,600

 

  バックパック背負ってインドを旅行して、インドは広い、インドは不思議だ、インド人はこうだった、変な風習があったと自分の体験談をまとめた本は数多い。何冊も読んで、話としては面白いけれど、そういうことがあったとしてもそれがどうしたと(その人たちの個人的な体験をバカにする気はないが)、本にして世に出すほどのものでもないと思っていた。だから、驚愕編などというサブタイトルを見て、この種の本はこれを最後にしようと読み始めた。ところが、これが面白いのである。著者は、30年にわたりインド旅行をしているというから、並みの旅行者ではない。「驚愕」は、異文化との出会いにつきまとう「滑稽さと誤解」であって、日本人を見た外国人(インド人も含む)も同じことを感じるはず。著者の文体は覚めていて、しかもユーモアと人間への愛情にあふれている。(斜視正視)