仙台時代(1998年~2000年)

情報サービス時代に立ち上げられたばかりのローカルツーローカル(L/L)事業を引っ提げて、現場で具体的に展開できた仙台時代は仕事の上で最も充実していた時代の一つであった。生活面でも、仙台という東北の中心都市で、衣食住とも満足し、3人目の子供だけ連れて充実した生活を送った。その分、上の2人には苦労を掛けたということかもしれない。

2度の冬を過ごしたが、スキー・シーズンの週末は宮城蔵王によく通った。朝8時過ぎに出発し、10前にはゲレンデ、午後3時ごろにスキーを上がり、途中で遠刈田温泉に浸かり、夕方には自宅で夕食をとる。なんとも優雅な生活であった。夏期休暇や週末には東北各地の夏祭りに出掛け、山形・秋田・岩手・青森・福島の観光地に出向いた。

(1)ローカルツーローカル事業は、地域全体では東北通産局とも相談し、個別に宮城県や仙台市と話し合って案件発掘をし、仙台事務所としては米国ダラス市と仙台市のIT産業交流に焦点を絞ることとなった。テキサス・インスツルメントは大分県に進出しており、姉妹都市関係ではオースティンと大分が提携していた。仙台市に進出していたのはモトローラ(東芝との合弁)であり、実際にはかみ合わない三角関係となっていたが、テキサス・インスツルメントの東京代表がダラスと仙台の間に入って熱心に経済交流を結び付けてれた。それをコアに双方の地域産業振興のために交流することになった。テキサスではジェトロ・ヒューストン・センターが旗振り役となり、大学未来科学技術共同研究センター(NICHE)と技術移転センター(TLO)、また米国ではテキサス大学がバックアップし、地元経済界を事業主体とする枠組みを作った。NICHEでは、工学部井口学部長、経済学部西澤教授、福島助教授にお世話になった。大学間の提携の要素も強かったように記憶している。

(2)日米貿易摩擦等を背景とする輸入促進事業でジェトロは全国で、輸入品アンテナショップ、輸入住宅展示場を管理し、FAZ整備事業に関わった。特にアンテナショップは、仙台市内の一等地に広いスペースを確保し、実質的に輸入品小売販売業を経営した。あくまでもアンテナショップなので本来は収支を上げることが目的ではないが、収支尻が合わなければ入居企業が困る。赤字を出しては事業が遂行できない。日々、アンテナショップに出掛けては動向を確認した。

(3)その他、東北通産局の北米ミッションに参加、また中国の江沢民国家主席の訪問は近くで成り行きを見守ることが出来たのは面白かった。宮城県では研修生受け入れ事業関連で中国出張した。宮城県、仙台市、仙台商工会議所の皆さんと懇意にしてもらった。

 


ジェトロ・センサーに投稿


香港・チュン・マンイー女史の日本での初仕事にジャッキー・チェン参上!

一時は香港のジャンヌ・ダルクとも言われた香港電台(RTHK)のディレクター張敏儀(チュン・マンイー)女史は、返還後の香港東京事務所の初代代表(大使)を務められました(1999年~2002年)。


今、中国の一国二制度は香港市民の期待に反して、約束の50年の半分にも達していないのに、北京の支配を強化する法案

(一国二制度を否定)が成立してしまいました。香港返還直後に東京に赴任した張敏儀さんはジャッキー・チェンをゲストに

迎えて香港セミナー(光と投資誘致)を開催しました。最初のイベントが仙台で開催され、あれから既に22年が経ちました。

あの頃は香港には大きな夢がありました。一国二制度の下で、50年以内には中国が民主化され大いに変わるのだ、香港はその

為に中国と世界とを結ぶ窓口として、中国を変えてゆく上で大きな役割を果たすことになるのだという意気込みと夢でした。

ジャッキー・チェンは北京オリンピックを経て、今は完全に北京ベッタリの広告塔になってしまいました。しかし、あの頃

は違いました。自由香港の期待の星でした。香港電台(テレビ)でディレクターとして活躍してきた張さんはジャッキーから

大姐(あねご)と一目置かれ尊敬されていましたが、彼女の一声で彼女の日本での初仕事の香港経済セミナーにゲストとして駆

けつけました。


若い頃は美人で才能豊かなテレビ・ディレクター、英国と中国が返還交渉を進める中では香港人のための活動家(条件闘争を

して一国二制度を勝ち取るのに貢献)、そして香港人からも北京からも、そして英米からも支持されて、初代駐日大使(香港政

庁東京代表)、そして東京を離れてからも活躍する姿を時々はネットで拝見しました。

個人的にも仕事上も、私は中国とも香港とも関係がないのですが、人を介してそのセミナーの司会を依頼されました。プロ

の司会者ではないのでと最初はお断りしたのですが、張さんから直接依頼されてお引き受けしました。彼女の初仕事の場とし

て仙台が選ばれた理由は知りませんが、元は経済人を対象とするセミナーにもかかわらず、隠し玉(サプライズ)にしていた

ジャッキー出演の噂がいつの間にファンに広がり、たくさんの来場者を集める大イベントになりました。


一国二制度が半ばの25年で挫折したかに見える香港人の無念を思い、しかし、これからあるいは北京が変わるかもしれないという微かな可能性を思い、ここに昔の思い出を紹介します。(2020615日)