ジェトロ本部での仕事(国内、海外、地方):太字は本部

19731977年 日本貿易振興会(ジェトロ)企画部輸入対策課1974年結婚

19771980年 ジェトロ熊本貿易相談所:妻・長男帯同、長女誕生

19801982年 機械技術部計画課

19821987年 マニラ・センター調査部長(フィリピン):妻・長男・長女帯同

19871988年 総務部広報課課長代理

19881989年 輸入対策部協力事業課課長代理(労働組合執行部)

19892002年 機械部計画課庶務主任・主査

19921995年 サンフランシスコ・センター次長(米国):妻・長男・長女・次女帯同

19951996年 情報サービス部(地方事業課長、情報サービス課長)

19982000年 ジェトロ仙台事務所長:妻・次女帯同

20002001年 貿易開発部次長

20012005年 ニューデリー・センター所長(インド):妻・次女帯同(一時期長男合流)

20052007年 対日投資部長

2007~2009年 ジェトロ横浜事務所長:単身・上大岡寮

(1)企画部輸入対策課:発展途上国向けの協力事業(国内展示会、有力者招聘、商品別日本市場紹介)展示会で思い出すのは、タンザニア、ルーマニア、パプアニューギニア、パキスタン、スリランカ、フィリピン・・・。招へいは、コロンビア、コスタリカ、チリ、マレーシア・・・。商品は、冷凍エビ、冷凍イカなど5品目ほど(名前がよく出てきません)。ジェトロがODA事業を始める前の枠組みです。「輸入促進」ではなく「輸入対策=輸入を抑制すると言う意味はなかったのですが、納税者から指摘されれば輸入対策ですからと言い訳できるような名前を課に命名していました。まだ輸出促進の時代の中で、JICAとは違って、ジェトロは経済協力には及び腰でした。当時の課長は、小山巌氏から田口直弘氏に交代。

この小さな課はジェトロの全ての活動のミニチュア版で、調査、展示、招聘、出版の各種事業を核にして、その後輸入対策部となります。名前はまだ対策を協力とは言えなかったが、ODA事業を本格的に展開し、展示・招聘・一般調査を引き継ぎ、特にアジア連携事業が拡大し、その中でも適正技術移転協力、エネルギー技術普及事業は機械部が担当しました。

(2)機械部計画課:プラント輸出関連情報の収集・提供のために「ジェトロ・プロジェクト情報」を発刊。月に2回、各国の開発計画からプラント関連情報を収集し、プラント協会、エンジニアリング協会、商社、メーカー等に提供する有料出版物。年間購読料(24回)を17万円というジェトロではいままで考えられない価格設定。情報収集の基礎的な所は、機械工業補助金(日自振)なので、購読者50口が損益分岐の目標。それを1年半担当し、マニラに出発前には、150口近くまで購読者を伸ばしました。その後、500口ほどまで達したと聞きます。この時期の思い出は、リビア・エジプト・クェート・サウジアラビア出張です。特にカダフィのリビアは忘れられないです。トリポリ見本市再開の現地調査が目的で約1週間トリポリに滞在しました。

(3)広報課:ジェトロは貿易記者クラブへ場所を提供。多くの新聞社の経済記者と接することとなりましたが、マニラで各社記者(経済部だけでなく社会部)と交流があったので、その延長のような興味深い職場でした。外部の研究会で外出することも多かったのですが、女性職員の活躍に助けられ、社内報の発行などもしながら1年席を置きました。

(4)輸入対策部協力事業課:協力という文字が課には付いていましたが、特にアセアンを対象にした事業です。組合執行部(副書記長)の仕事もしながらでしたが、勝手知ったる古巣のような快適な職場でした。フィリピンも対象で、ある時アキノ政権貿易工業省(DTI)の新顔の女性職員(ポストは次官補=Assistant Undesecretary)が、東京・大阪にDTI事業担当者を引率して訪日ましたが、それが後に大統領になるアロヨ女史であるとは後になってから知りました。ツーショットの写真があるとの事でしたが、私の手元にはありません。まだ若く、かわいい女性でしたが、声はその時からドスのきいた低音でした。あれからほぼ20年経って、アロヨ大統領には、横浜時代のマニラ出張時に商工会議所大会で、またAOTS時代に看護師・介護福祉士研修現場であるAOTS・TKC視察・訪問の時に直ぐ近くいにいましたが、直接話しかけるのは遠慮しました。

(5)機械技術部計画課:この時代の最大の思い出は、ロンドンでの「ロボット技術展」です。このことは別途記述しました。ロボット展とは別に、その時代にまだ統一前のドイツと統一直後のドイツを3回ほど訪問する機会がありました。ヨーロッパでの海外調査部・機械技術部の合同会議に出席した折に訪ねたのですが、一回は統一後の東ドイツ・ライプツィヒ市での見本市会場視察(参加可能性調査)でした。

この頃に力点を置いていたのが「JOIN」事業。これはアジアを中心に海外進出・海外市場開拓を本気で考えている中小企業をジェトロがネットワークを駆使してとことんサポートしましょうという事業です。NAP(ニュー・エイド・プラン)と同じ頃に、GAP(グリーン・エイド・プラン)という新たな事業を提案し、アセアンからインドまでアジア各国で展開しました。このそもそもの狙いは、アセアン協力事業の中のエネルギー技術普及事業を拡大発展させたものですが、日本の省エネ技術・生産技術を元にして生産性向上、製品の品質向上、競争力強化を図りましょうと言う大きな狙いがあります。通産省傘下だけでも、エネルギー技術関連団体は数多く、それぞれがアジア各国と個別にプロジェクトを展開しておりそこには日本としての方向性が見えないという監督する役所(通産省)の問題意識とそれを管理したいという思惑がありました。その中核として、ジェトロ本部ならびに各国のジェトロ事務所が相手国政府関係機関との間で連絡・調整しましょうということになりました。ところが、連絡はいいが調整をジェトロに依頼することはない(ジェトロに調整されるのは嫌だ)と、それは多くの関係団体の主張でした。連絡ネットワークを形成して官民の協力を進めて行きましょうと言うことで、ジェトロ本部と海外事務所に徐々に人的ネットワーク(人件費)を広げていくことになったものです。この予算措置のために、ジェトロ担当課(ジェトロ班)と技術協力課の間を何回行き来し実現したか想像もつかない折衝を続けました。これが役所のお仕事です。

しかし、通産省のN経済協力部長が、この事業目的を正当に評価し自らのイニシャティブで推進した事業であると自負していたは大変ありがたいことで、最初の対象国のタイでの成功は次々と対象国を広げていくことになり、この事業が最終的にいインドにまで拡大していたお陰で、ニューデリー事務所はセンターに格上げされ、後に自分がその事務所の所長に就くとは思いもよらないことでした。

(6)情報サービス部(地方事業課・情報サービス課)については、別途記述。

(7)貿易開発部次長:1年半ほどいたが、南太平洋諸国連合との連携事業で、南太平洋諸国に出張した(トンガ、バヌアツ、フィジー、サモア、仏領ニューカレドニア)。フィジーは2001年9・11直後に国際会議開催のために再訪したが、若い頃に展示会をしたことのあるパプアニューギニア、あるいは日本とも縁の深いパラオ(宮城蔵王の北原尾に引揚者の村、当時のナカムラ大統領のこと)、そしてキリバス(仙台の小野青年が移住)に行けなかったのが残念であった。ここでは特出すべき新しい仕事もしていないが、初めてメキシコ以外のラテン・アメリカに足を踏み入れました。アルゼンチン・ブエノスアイレスでの会議に出席し、ブラジル(サンパウロ、リオデジャネイロ)、メキシコ、そしてサンフランシスコを再訪しました。

(8)対日投資部長:小泉政権であった。外国に出て行った日系企業は進出した先の国の企業である。日本の製造業の多くは既に中国、アジアに進出し開発拠点や生産拠点を設け国際的なビジネスを展開し、何人か日本人駐在員を派遣しながらも製造分野や開発技術者は現地の職員を採用していた。外資を受け入れる国は外資が雇用を増やしてくれて、技術力がアップするから当然大歓迎。外資企業の日本への進出は、流通・商業、金融サービス部門への進出はそこそこ伸びてきているものの、日本企業さえ海外に生産拠点を移転している中で、外国企業が製造拠点を設置することは稀有な事ですが、開発拠点として製造業が日本に進出することは十分にありうることなので、対日投資促進はいつになっても変わらず極めて重要な施策cでした。インド帰りの自分が就くのに相応しいポストではなかったかもしれませんが、逆にインド企業(ITソフトに限らず製薬業等)が日本に進出しようと言うことなら、日本として誇るべきビジネス環境が整えられているという証左になると言う(多少逆説的な意味から)、自分なりに対日投資部の仕事に尽力したつもりです。インドから帰って対日投資部長をしている2年弱の間になんと50回ほどのインドビジネス・セミナーの講師を務め、席にいないことが多かったです。そこを課長や課長代理が見事に勤め(最初から部長は不要)、部長の仕事は部長会・役員会に出て、上の方が課長・課長代理のやる気をへし折らないことだけに注視しました(ちょっと言い過ぎとも思うものの、本当にそういう意気込みでありました)。1年半が過ぎた頃に、実は海外転勤について内々の打診がありましたが、老齢化した父母の事情から日本を離れられない旨を説明し、幸いにも横浜事務所に異動させてもらうこととなりました。

考えてみれば、組織内の転勤・異動ばかりで何の華々しいこともないサラリーマン生活でしたが、これら本部勤務と海外3か所、国内3か所を繰り返す変化に富んだサラリーマン生活でありました。