熊本時代(昭和52年8月ー56年3月)

宮原 豊(2015830日)

 

昭和52年(1977年)6月末にヨーロッパ出張から帰国挨拶すると、当時所属していた企画部輸入対策課田口課長から熊本行きを言い渡された。本部でもう少しやりたい事があったが、小倉生まれの家内は喜んだ(と記憶している)。長男と3人、白川を挟んだ黒髪町対岸の子飼橋を渡って直ぐの大江一丁目に部屋を借りた。その後、熊本時代に長女が誕生。

 

《もっこす》

 

数ヶ月は様子見していたが、県商政課の担当主幹・畑坂氏とある時に「もっこす」で言い合った。「わしゃもっこすだけん」と言うのが、いつも最後のせりふで、それは思考停止の言い訳であった。それでは何にも進展しないような気がした。「もっこす」という言葉は、自分の事を言う時には「曲がったことの嫌いな一徹者、正直者」といい意味で使っている事は百も承知の上であったが、内心では「もっこすもっこすとうるさい。そんな事を言っていたら日本中、全員がもっこすになってしまう。言えば自分だって長野のもっこすだ。熊本のもっこすがなんだ」と思った。具体的に何があったかは憶えていないが、その後その主幹とはより親しくなった。こちらも「お客さん」をやめて「本場のもっこす」となり、その後は「第二の故郷」熊本県の中小企業のために本格的に働く事とができたと思う。これが後の「もっこす会」(ジェトロ熊本関係者の集まり)の名前の由来である。ちなみに「もっこす会」は、経済産業省・小山智氏が熊本県出向後にジェトロ企画課長に就任、その時に企画部に熊本勤務経験の田中君や鎌田君が在席しており、熊本人と結婚した石井君にインド帰りの私を加え、「熊本事務所経験者、熊本県に出向者、血縁・地縁で熊本に縁のある人、熊本県・市東京事務所在勤者」を集めて、年に2度ほどの飲み会が始まった。

 

《熊本で学んだこと》

 

熊本では大学や東京本部では勉強できない実社会のことを学んで、考えさせられたが、自分のサラリーマン生活(ジェトロ人生)の出発点のような気がする。順不同でいくつか列挙してみたい。先ず、①自分で考え、動かなければ何事も始まらないということ。②支所は対外的には組織全体の代表者であること。本部の各部、各課全てと(東京から派遣されているのが自分一人なのだから)自分の責任と権限で対処しなければならないが、出先の職員としての責任あるいは義務と権限について考えさせられた。次に、③3人体制の小さな事務所だが、「1プラス1プラス1は常に3ではないこと」。即ちコミュニケーション(いわゆる報連相)次第で5人分も6人分も仕事ができること(逆におかしくなると3人いても1人前も達成できない)。また、④誰かのためになにかをする時、お金の使い方が非常に大事だ(むずかしい)ということ。下手に使えば折角のお金が逆効果となることもあるし、公私を明確に分けて、(公私ともに夫々を)嫌味なくきれいに(スマートに)使わなければならないこと。そして、⑤(ジェトロは民間会社ではないのだから売上げとか利潤とかより)何のために何をするのか高い公共的目標を自らが設定することの重要性である。

《賛助会員》

ジェトロ賛助会員(後のジェトロ・メンバー)は、自分が熊本着任時には15社程度であったが、熊本を離れる時は46社になっていた。安田所長(2代目)と一緒に県内企業訪問を積極的に行った。平田機工のことを思い起こす。平田機工は貿易関係では県内企業の中で群を抜いていたが、県貿易協会にも属せず、県にもジェトロにも縁薄い存在だった。工場オートメーション化(FA)機械メーカーとして松下電器の海外展開に合わせて海外ビジネスを拡大してきたが、社長・専務にしてみれば、県に世話になったこともなく、ましてジェトロは自分たちのほしい情報を何も持っていないと感じていたと思う。ところが、更なる事業拡大のために採用した海外要員が必要に応じてジェトロに来るようになった。社長に話してもなかなか会員になってくれない。こちらも(会員になってもらうことが目的ではなく、ジェトロをうまく使ってもらうことが重要なことだからと)辛抱強くお付き合いをした。1年掛かり、しかも社員(総務係長や海外担当)の強い説得である時遂に社長がジェトロ会員になった。一流といわれる企業になるためには、直接・間接の情報を幅広く収集、分析、処理する能力を身につけなければならないと感じた結果だと思う。月1回発行するジェトロ熊本情報は最低限の会員サービス。こまめに会員企業訪問を実行した。

 

金庫と移動棚の金剛(谷脇社長、貿易担当の立花氏)、鋳造やコンクリート・ブロック・マシーンの光洋鋳機(大滝社長)、救急バンソウコウの阿蘇製薬(久木会長)、南星(島田氏)、水門メーカー西田鉄工、中型船舶の熊本造船、三角海運(佐々木社長、栗尾氏)、玉名の浦島海苔、天草の真珠養殖と製品加工の天新パール(小川さん)、いつも夢を追いかけていた熊本県貿易物産(山田社長)等々、多くの方々にお付き合いいただいた。始動したばかりの球磨焼酎酒造組合(人吉地方)も思い出深い。

 

《囲碁とゴルフ》

 

熊本では碁を習った。石の並べかたも知らない15級から2年半程で初段で打ってもいいといわれた。日本棋院熊本支部の皆さんは碁の先生というより飲み友達になってしまった。当時地方棋士の原浦氏、肥後名人前田氏、宮本氏、松本氏、女流棋士の田村さん等々にお世話になった。その後東京でもお付き合いいただいた共同通信の新井氏(経済部)は熊本の碁会所の同窓生だ。飲んで歌って碁を打った「六酒房」の平林氏(人吉出身)は、夜の繁華街での友人だ。その紹介で通った小料理「みちよ」の「がらかぶの味噌汁」の味は忘れられない。ゴルフも熊本で習った。百花園の練習場や初めてラウンドした熊本空港カントリー、よく連れて行ってもらった中央カントリーなどがなつかしい。熊本にいる時に、九州では行ったことがない場所はないと言えるほど、週末には小型自動車で県内各地、九州各地をくまなくドライブした。

 

《県・市との関係》

 

ジェトロ事務所は国と地方との予算持ち寄りで運営されている。県のジェトロへの負担金が少ない代わりと言う訳でもないが、時々県の委託出張で東京に来た。当時の担当課長と関係先を訪問して県の仕事を済ませ、後は自由にしていいよとジェトロ本部での仕事に時間を使わせてもらった。また、県・県貿易協会の派遣する東南アジア訪問団の一員として、タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシアに出張した。副知事を団長とするミッションの準備のため事前に各地で受入態勢を整え、本体を迎えてもう一回事前準備をしたコースを回った。熊本日日新聞の川崎氏、浜田氏の両記者と親交を深め、同紙面に「海外情報」と「貿易相談」というコラムを毎週交互に(月4回)掲載してもらった。帰任まで約2年は続いた。

 

38ヶ月の熊本勤務であった。いろいろな人たちとお付き合い出来たが、最後熊本を去る時は熊本キャッスルホテルで盛大に送別会を開いていただいた。貿易協会会員や県会議員や県・市の職員まで50人を上回る人に送っていただいた(もちろん会費制)。

 

 

昭和56年早々に熊本市産業文化会館(前の勧業館)が辛島町電停前に完成、ジェトロ熊本もそこに移転した。当時の田尻経済局長(後に助役を経て市長)には負担金を大幅に引き上げていただいた。引越しを終わって、棚に最後の本を置き、一息ついたところに後任が到着した。翌日には思い出深い熊本を後にした。