輸出向け組み立て式家具用の金属部品(T-Nut)の製造技術

 

 1983年からフィリピンも対象国となった「アセアン協力事業」のうち中小企業適正技術普及事業では、輸入対策部事業としてはフィリピンの輸出産業育成のためにより付加価値の高い籐製家具・木製家具を製造するために家具工業会に協力してデザイン開発や市場開拓(展示会開催など)の支援をしていた。そして、自分の担当部門としての「機械部」の対象事業としては金属加工業とプラスチック工業に関わる金型産業に注目した。

 

 昭和58年度(1983年)のFS調査で、金属加工業の専門家としてフィリピンを訪問した熊沢明芳氏(自動車部品製造会社所属)は、我々が家具産業の輸出振興に協力していること、木工家具輸出には輸送コストの低減のことなどから(今となってはイケアなどで当たり前の)組み立て式家具を製造していかなくてはならない。しかし、そこに使用されている金属部品はほとんどがドイツや日本からの輸入品である。フィリピンの金属部品の国産品は極めて初歩的な釘、ネジしかないと聞き及び、家具工業会と金属工業会の双方にヒアリング調査をした。その結果、一つの例題として、もし金属工業会が国産T-Nutを製造したら、家具工業会メンバーはこれを購入するか。また、家具工業会が購入すると言えば金属工業会としてはT-Nutを製造する気持ちがあるかと持ち掛けた。双方ともその意志のあることを確認し、次年度T-Nut製造技術の支援をすることとなった。この構想には、DTI(貿易工業省)の企画室長フランコ女史とMIRDC(工業省傘下の金属加工調査開発センター)の賛同も得られた。

 

 T-Nut製造の工程は、ブランク抜き、何段階かの絞り(ドロー)加工、トリミング、爪起こし、ネジ穴切り(タッピング)があるので、簡単なようでも当時としては高度な連続加工技術を必要とした。高額なプログレッシブ・ダイ(一つの金型の中に複数工程をセットする順送型)ではなく、現状に合わせて工程を組み合わせて金型交換するタイプの試作金型を日本で作成してもらって、それをサンプルとしてT-Nutの試作品製造に取り組むこととなった。

 

 いくつか関門があった。 先ずは材料。 絞り加工をするのでいくつかの素材で実験するために可塑性の高い鋼材(SS材)が必要であるが、NSC(フィリピン国営鉄鋼会社)では揃わない。 S-C材(固く強い)はNSC製品を購入するが、既定のSS材は日本に特注しなければ入手できない。 厚さ1ミリ、縦横1メートルのものを20枚。 合計の重さ2トン程度であるが、鉄鋼会社にしてみれば超々極少ロットで対応不可能。 ある時に、川崎製鉄マニラ支店長の藤本襄氏に何か方法がないかと相談したところ、じっとこちらの目をのぞき込み(多分当方の本気度を確認した後)、「任せてくれ、無償提供するように社内で相談してみる」という。 後日、文書を出してくれと言われて用意した。 1カ月ほどして依頼した鉄鋼製品が実験をする工場に配送された。 本気とも冗談とも分からないが「こんな小ロットの取り扱いは初めてだ。 あんたのために千葉工場をストップして作らせた」と言われた。それは半分冗談であったかもしれないが、このような仕事を引き受けてくれた藤本さんと川崎製鉄さんには今も感謝の気持ちを忘れたことはない。 

 

 実験をする工場は金属工業会メンバーのクーラ・エンジニアリング。 金型専門の中小企業であるが、金型製造ではなく金型修理を主な事業としていた。実験の前にセミナーでT-Nut製造の解説をしてもらう。 金属加工業者だけでなくクライエント(顧客)となる家具工業会メンバーも参加してもらった。 そして、納得してもらったところで家具工業会と金属工業会が共同ステアリング・コミッティを形成し、DTI=MIRDC=JETRO=家具工業会=金属工業会による協力覚書の作成、記者会見をした。 実験用の材料だけで2万個は出来る皮算用。 しばらくはこの金型で作って部品提供、そのうちに新しい金型を製造してもらおうと、その後のプロジェクト進行についてステアリング・コミッティはタイムスケジュールを作成した。DTI=MIRDCならびにJETROはアドバイザーとして側面的に支援、両工業会のイニシャティブにより推進されることになった。

 

 昭和60年度(1985年)になるとにわかに周辺が忙しくなる。マルコスの健康問題、国際金融団との交渉、日本企業の操業、物価・為替、そして大統領選挙の前倒し実施等々である。それでも覚書に従って家具工業会も金属工業会は粛々と進めているものと思っていたが、彼らも厳しい経営環境に直面しており、政治の季節を迎えて、計画は捗々しくなかった。96年には大統領選挙、エドサ革命による政権交代、新政府の政治経済運営、貿易工業省(DTI)の次官・局長の交代、度重なるクーデター騒ぎ等々を新聞記者のように日々追いかけているうちに、11月には三井物産・若王子支店長誘拐事件、その間もバタバタしているうちに87年3月に帰国することとなった。

 

 1988年頃、家具工業会役員のソーさん(Mr.So)が日本に来た。T-Nutプロジェクトはあのままになってしまって、金型と材料はMIRDCが所有権を主張してクーラ・エンジニアリングから持ち去ったという。別の家具工業会メンバーが訪日したので聞くと、ソーさんは(私には言わなかったが)比較的加工のしやすい真鍮を使って台湾でT-Nutを作らせて家具業者のために輸入しているという。それがビジネスとして成り立ったならば、我々のプロジェクトの結果は計画通りに進まなかったものの、一石を投じることとなったのではいかと思う。

 

 当時「産業のコメ」と言われた金型産業は日本にとっても重要な基礎的技術分野であったが、アジアにとっても単なる加工・組み立て産業ではなく基礎産業である金型産業の発展は不可欠であった。 日本は金型分野の高度技術分野で生き残り、基礎分野はアジア移転と言うような「棲み分け論」を展開する間もないほど、金型産業は急激にアジアに移っていったが、80年代はそこまでの予想はしていなかった。家電・自動車アッセンブラーが海外進出、それに追随し部品産業もアジア進出し、日本の金型産業は中級品ばかりではく高級品も台湾、韓国、フィリピンや他のアジア諸国に向かわざるを得なくなった。1990年代中ごろに米国から帰国して地方に行った時に、ある中堅金型企業の社長から全社的にフィリピン移転したいと相談を受けることがありが、10年前にアジアで自分がしてきたことを振り返ると、産業技術の基礎である金型産業と雖もいずれはアジアに技術移転されるはずだという予見が正しかったと思うと同時に、そのスピードがあまりにも早くその社長のことを考えると我が身の細る思いをした。

 

 その頃には、上記のクーラ・エンジニアリングも世代交代し、ドイツに留学した息子が跡を継ぎ、先端知識と技術を駆使して最新式のプログレッシブ・ダイ(順送型金型)を設計・製造するようになっていたそうである。1985年~1998年の十数年間の変化である。

 

T-Nutとは何か?





History of ENMAP  エネルギー技術普及事業のカウンターパート

In 1979, the Bureau of Energy Utilization (BEU) under the then Ministry of Energy launched a series of energy management training courses in an effort to instill awareness among the industrial sector on the need to conserve energy. The graduates of the first five of these training courses, mostly holding managerial positions, fully convinced that there was so much potential for energy savings in the industrial plants, conceived the idea of forming an association whose primary purpose was to collect and disseminate information on energy management for the benefit of the whole industry sector.

Fourteen representatives from different industrial companies formalized the creation of the Energy Management Association of the Philippines (ENMAP) in August 1979 by electing a set of interim officers, headed by Mr. Alberto T. Abaya of AGP Manila.

ENMAP obtained its Certificate of Registration from the Securities and Exchange Commission on October 15, 1979. As years went by, membership grew from the initial fourteen members to more than 600 individual members and 24 corporate members. Regional chapters were created and sectoral committees were formed to serve the requirements of the members.

During the early years of its existence, ENMAP worked closely with BEU and the Development Academy of the Philippines in the implementation of several fora, seminars, and workshops on various topics on energy conservation:

New Developments in Energy Conservation (July 1980) Recycling (November 1980) Energy Aspects of Building Design and Air Conditioning (February 1981) Dieselization (August 1981) Energy Productivity Symposium (November 1981) In the ensuing years, ENMAP became a self-reliant organization through the consistent guidance of BEU and with the regular support and assistance coming from the United Nations Education, Scientific and Cultural Organization (UNESCO), Japan External Trade Organization (JETRO), the Philippine National Oil Company (PNOC), the Philippine Council for Industry and Energy Research and Development (PCIERD-DOST) and ENMAP's corporate members.        (ENMAP資料を転載)


コラソン・アキノ政権のエネルギー省

 

 1986年2月22日~25日のエドサ革命で発足したアキノ政権は、2月26日には新政権の骨格となる主要閣僚を発表したが、政権発足後3カ月を経過してようやく全体の布陣が整った。マルコス政権時代に利権の塊(かたまり)・不正の温床と見なされ、エネルギー省は上から下まで腐っていると批判の矢面に立たされた。そのため、エネルギー大臣はずっと空席のまま、肥大化していたエネルギー省の組織は大統領府直轄のエネルギー部局に止められ、PNOC(フィリピン国営石油会社)会長に指名されたヴィセンテ T. パテルノ会長がエネルギー担当次官(Deputy Executive Secretary)として約1年間エネルギー行政を担った。

 

 パテルノ氏は、マルコス政権で70年~74年BOI(投資委員会)長官、74年~79年産業大臣、79~80年公共交通大臣の要職を務めた。また、マルコス与党KBL選出の下院議員を務めたが、アキノ元上院議員暗殺事件(83年8月)に対するマルコス政権の対応を非難して83年11月に辞任した。86年の大統領選挙ではNAMFREL(民間選挙監視委員会)メトロ・マニラ委員長を務めた。

 

 パテルノ氏は、1896年フィリピン革命でスペイン当局と革命派の仲介役を務め、97年ビアク・ナ・パト協定により終戦合意に導いた立役者で、98年マロロス共和国議会に参加、99年共和国第2次内閣で首相(1900年4月25日アメリカに降伏したことになっている)を務めたペドロ・A・パテルノという愛国的英雄を輩出した名門ファミリーの出身である。

 

 マルコス政権時代にほぼ完成していたバターン原子力発電所プロジェクト中止の代替として、いくつかの石炭火力発電所プロジェクトが国家電力公社(NPC)により進められたものの電力需要に追い付かず、アキノ政権におけるエネルギー政策は停滞、その後数年間電力不足に悩まされた。

 

 そのような状況の中を1986年の5月か6月、フィリピン・エネルギー管理者協会(ENMAP)のグレッグ・ゴンザレス会長と共に、PNOCの会長室を訪問し、ENMAPの活動(基本的な考え方、事業内容、事業計画等)を説明、ジェトロとしての協力の趣旨と実績ならびに計画について説明した。ENMAPはエネルギー省の省エネ対策課(リム課長)の監督・支援の下で運営され、ジェトロはエネルギー省と覚書を交わして1983年からENMAPに協力してエネルギー技術普及事業を実施してきた。それまでに、セメント産業、鉱業(銅鉱山)、繊維産業等を対象に省エネ・生産性向上の技術協力を行ってきた。上から下まで腐っていると言われるエネルギー省の中で、少なくともENMAPは100%民間のイニシャティブで実行される事業なので、ここには利権の余地は全くなかった。

 

 しかし、パテルノ氏の追及は厳しかった。ベラスコ・前エネルギー大臣や次官・局長という前政権の幹部にどのようなメリットが与えられたのか、ENMAPは彼らのために働いてきたのではないのか、そして向きを変えてジェトロの支援とはどういうものか、日本からの資金的な支援があるのではないのか等々と厳しい質問が飛んできたのである。エネルギー省が省エネ活動のために多少の政府予算を組んでいたとしても、ENMAPに補助金が出ていたことはなく、協会の運営は会員企業の会費で賄われていた。ジェトロのENMAPとの共同事業は専門家招聘(日本から旅費等)とセミナー開催や実地指導の実費をジェトロが負担するものの、エネルギー省や協会(ENMAP)に対する資金協力は一切ない旨を(これは本当に本当の事だから)堂々と説明し、省エネ技術普及は生産性向上により民間企業自らが競争力を強化する上で大きなメリットがあり、これがつもり重なって国としての産業競争力強化に結び付くのであり、純粋にそういう目的のために働いていることを強く訴えた。

 

 70年代、マルコス政権のBOI長官や工業大臣を経験してきたパテルノ氏であるから、ENMAPの活動やジェトロの事業趣旨は十分に理解してもらえたと思う。その後もジェトロはENMAPに協力し、ENMAPは名称変更したが今も存続している。エネルギー管理は、下からの積み上げではなかなか進まず、効果を上げるなら先ずは社内で上からの強いイニシャティブにより組織作りをして部門ごとに目標設定し、各部門が下から目標管理、成果を積み上げて全体として効果を高めることが必要である。個々の企業には、社長室直轄の省エネ・チームを設置し全社的に取り組まなければならない等々と、これもパテルノ氏に強調したのであった。

 

 ゴンザレス会長とはもっと大きな夢を語りあった。アセアンの中でもフィリピンはENMAPの省エネ活動が先行していたので、アセアン事務局の指導により各国政府・経済界との間でアセアン・エネルギー管理者協会を設立して、エネルギー管理の手法について国際的に情報交換する場を構築したいと考えていた。ゴンザレス氏はPNB(フィリピン国立商業銀行)の技術担当役員(融資の際の技術評価担当)であり、ENMAP会長は無給のボランティアであった。彼の指導力の下で若手の企業家(多くは2世後継者であった)により立派に運営されている民間団体(ENMAP)と仕事をするのは大変楽しいものであった。

 

 

1987年3月にマニラから帰国して広報課に配属された後、約1年の輸入対策部協力事業課(組合執行委員)を経て、89年~92年まで機械技術部庶務主任(部の筆頭課長代理)を務めた。部の予算担当であり、部の全ての事業費と管理費の統括である。この部署のことは別途設けているが、そこで新たな取り組みとして展開したGAP事業(グリーン・エイド・プラン)という事業の新規事業の発想はフィリピンのENMAPとの共同事業が基礎になっている。

 

 GAP(グリーン・エイド・プラン)という新たな事業は、アセアンからインドまでアジア各国で展開された。そもそもの狙いは、アセアン協力事業の中のエネルギー技術普及事業を拡大発展させたものだが、日本の省エネ技術・生産技術を元にして生産性向上、製品の品質向上、競争力強化を図りましょうと言う大きな狙いがあった。通産省傘下だけでも、エネルギー技術関連団体は数多く、それぞれがアジア各国と個別にプロジェクトを展開しており、そのために日本トータルとしての方向性が見えないという監督官庁(通産省)の問題意識があった。その中核として、ジェトロ本部ならびに各国のジェトロ事務所が相手国政府関係機関との間で連絡・調整しましょうと言うと、連絡ネットワークを形成して官民の協力を進めようという総論は賛成、しかしながら「連絡」はいいが「調整」は不要であるというのが多くの関係団体の主張であった。この事業予算措置のために、通産省のジェトロ担当課(ジェトロ班)と技術協力課の間を何回も往復した。

 

 通産省の経済協力部長N氏(後に某経済団体専務理事)が、この事業目的を高く評価し、自ら推進した事業であると自負されていたことは大変ありがたいことであった。しかし、官僚は下々のことは知らない。自分のイニシャティブで始めた事業であると信じて疑わない。確かに局内・省内で採択・認可されなければ大蔵省との予算にも上がっていかないし、通産省の部下達がヨイショして上げてくれる訳だから、それはそれでよいと思う。失敗していたら部下か法人の所為であり、成功したら自分の手柄。そのN部長のお陰で、最初の対象国のタイでの成功はマレーシア、フィリピン、インドネシアと次々とアセアンに対象国を広げていくことになり、この事業は最終的にインドにまで拡大した。ニューデリー事務所はこの事業により定員増となりセンターに格上げされた。後に自分がニューデリー・センター所長に就くとは予想外のことであった。