(財)国際開発センター「総合開発計画調査」

 

このレポートは、ニュー・エイド・プラン(NAP)事業と呼ばれる「アジア諸国の開発計画への支援協力事業」のための事前調査である。NAPは相手国の開発計画策定を支援するという謂わばちょっとお節介な(内政干渉的な)事業であったが、後にJICAに予算化されジェトロが実態調査と計画策定を請け負った。

慶応大学経済学部鳥居泰彦教授(開発経済学)を主査とする事前調査チームが(財)国際開発センターに設置され、現地調査を含む総合的なFS調査を実施した。87年3月にフィリピンから帰国後に就いたジェトロ総務部広報課に籍を置きながら、秋に現地出張調査(鳥居先生や調査メンバーをフィリピンに案内する役割)、その後の年末年始(8712月~88年1月)の約10日間の全てを報告書の執筆に費やした。自分の担当した章だけでも400字詰め原稿にして120枚にも及んだ。

相当額の原稿料(100万円+α)は全額ジェトロに入金され、個人の手元には何も残らなかった。何故そのようなことをわざわざ記するかと言うと、それまでジェトロ職員が外部から請け負う業務の原稿料や講演料は担当した者のポケットマネーになっていた。この時の原稿料が高額であったために初めてこのような扱いになったという面があるが、その後は金額にかかわらず外部機関からの委託調査料は全て公的に処理されていると聞く。年末年始の返上は、個人的には11月末(8ヶ月ぶり)のマニラ再訪の機会で十分に引き合う(金額に代えられない)恩典であった。十分に感謝している。



アジア経済研究所「アジア工業化シリーズ」

       「フィリピンの工業化~再建への模索」への参画

 

88年4月から89年(平成に改元された直後)まで輸入対策部協力事業課に勤務したが、広報課から異動して直ぐにアジア経済研究所から研究会メンバーに勧誘された。フィリピンでの4年半、マニラでは経済調査を担当し、主にジェトロの日刊貿易情報紙「通商弘報」への原稿書き・経済新聞記者の仕事をしながら、実はフィリピン工業の実態を近くで見聞する立場にいた。そのために、その経験を生かしてみたいと考えたので、(財)国際開発センターの調査が終わった直後ではあったが、研究会の仲間に入れていただいた。

フィリピンでは、金属加工業、プラスチック工業、木工家具工業、省エネルギー関連産業(鉱業、セメント製造、発電・配電、鉄鋼業、食品加工業、繊維・軽工業など全業種)などに対する技術協力事業に関わり、それらの事業を通して知った業界の情報ソースが、経済記事を書く上でも大いに役立っていたことを自覚していた。フィリピンではアキノ上院議員暗殺事件後の政治経済の不安定化の中で、国際金融・通商貿易の分野で、特にデフォルト・IMF交渉等々の記事を書くように求められた。大企業や日系企業情報は当然のことであるが、フィリピンの中小零細企業の事情について経営者の話を直接聞き記事を書くことが出来たのは、「事業」を通しての交流があったからである。金属加工業とプラスチック工業に関わる金型産業に大いに注目していた。「産業のコメ」である金型産業は日本にとっても重要な基礎的技術分野であったが、アジアにとっても単なる加工・組み立て産業ではなく基礎産業である金型産業発展は不可欠であった。その後アジアへの技術移転は、日本の高度分野生き残り、基礎分野へのアジア移転と言うような「棲み分け論」を展開する間もないほど急激であった。

そのような中での、フィリピンの工業化「再建への模索」の中で、金属加工(中でも金型産業)を取り上げることとした。外部委員としてこの研究会に携わるうちに、機械技術部計画課に異動した。広報課、協力事業課と1年足らずで渡り歩いたが、協力事業課時代の1年間は労働組合にも関わった。

 

その後20年経って、2009年にジェトロを定年退職後にAOTSに就職し、フィリピンのAOTS同窓会関係者と親しく交流したが、メンバーの多くが自動車部品産業(金属部品やプラスチック部品産業)に従事していることを知った。世代交代していたが、その自動車部品産業の興隆を嬉しく思うと同時に、時代の流れの速さに驚いた。

 

 


以下、本文(23ページ分)は省略。