横浜時代

 

ジェトロでは定年までの2年弱を横浜事務所長として勤めました。業務上は2つの目標があり、それを十分に達成できたと自負しています。

一つ目は、横浜インドセンター設立への協力、二つ目は外資系企業誘致です。どちらも神奈川県や横浜市や川崎市をはじめとする地方自治体、あるいは横浜商工会議所、横浜貿易協会の要望に沿ったものでした。

横浜インドセンターは西田会長の悲願でもあり、前任の倉野所長が本部対日投資部に協力を要請していたものであり、前者はインド経験を生かすこと、後者は対日投資部マターであったので、自分が部長として所属していた本部対日投資部の協力をそのまま横浜に引き継ぐことができたことに感謝。さらに自分の後任として植田課長(現在の総務部長)が対日投資部から着任されたことはありがたかったです。

たった2年の横浜時代ですが、今考えるといろいろなことがありました。事務所移転、TICADへの協力、インド訪問、タイ訪問等々ですが、ジェトロ存続価値について官民で議論が高まる中で、その必要性について時の神奈川県松沢知事が国や財界に「ジェトロくらい役に立っている組織は珍しい」と明言していただいたことは最大の貢献と思います。その数年前に、経団連の中でそのような声が高まった時には「インドがジェトロを救ってくれた」のですが、そんな記憶もある中で、この種の議論は何年か置きに必ず波のように押し寄せるようです。

痛恨の極みは、自分がジェトロ退職後に、横浜事務所の岸本所員が若くして他界したことです。その後西田会長が帰らぬ人となりました。

個人的には、横浜時代に両親が相次いで他界しました。最後の務めでE国に行ってくれないかと内々打診があった人事を断った理由が的中してしまうことなりましたが、最後の抵抗をしておいてよかったと思います。病気見舞いや法事に横浜ー埼玉ー小諸ー上田を往復しましたが、長野県内に住む姉2人・義兄2人には大変お世話になりました。その上、県のタイ訪問ミッションの前後は心臓手術をするという慌ただしさでした。