フィリピン・マニラ関係

ビジネス・インテリジェンス。創刊後まだ間もない雑誌に記事執筆を依頼された。狙いは悪くなかったかもしれないが、タイミングが少し早かったかもしれない。何回か発行されたか知らないが、発行されては廃刊する山のような雑誌の一つであった。







フィリピン原発  

 

 フィリピンのバターン半島を再訪しました。私自身、昔からフィリピンのバターン原子力発電所(BNPP)については様々なメディアに何回かレポートしてきましたが、一般にはフィリピンに原発があったなんて知らなかったという反応ばかりです。86年に廃炉となったBNPP 20137月中旬に訪問しましたので、ここであらためてBNPPについてまとめてみようと思います。

 

 以前の私のレポートの多くはマルコス時代の多額の外国債務を巡って、コラソン・アキノ政権の債務返済繰延べ(リスケ)交渉責任者として86年~87年に活躍したハイメ・オンピン財務大臣(後に謎の自殺)のことなどとともに、アキノ政権の債務交渉とフィリピン経済という観点からの経済記事として書きました。私がフィリピンに駐在したのは今から27年~31年前、PCもなかった時代のことだからどこに何を書いてきたか記録もなく、今では多くは自分の記憶が拠り所です。

 

 1986年のマルコス崩壊後のアキノ政権にとっては、マルコス時代に建設が始まり1キロワットも発電することなく廃絶せざるを得なかったバターン原子力発電所建設のために借入れた外国債務は、フィリピン国民にとって何の価値もない無意味な不良債務であり、米輸銀(EXIM)へ債務を帳消しにして欲しいというフィリピン政府の主張には一理あったと思います。76年段階の米ウエスティンハウス社との契約額は11億ドル、79年に原発事故を起こしたスリーマイルと同型の加圧水型軽水炉(PWR)だったために工事を中断して安全基準を見直し、多くの改良工事を施した後、84年に完成した時には総工費は23億ドルに膨れ上がり、そのうち15億ドルは米輸銀の融資だったと言われています。しかも、後に問われるように、マルコスとその取り巻き(クローニー)達がどのくらいの賄賂を受け取っていたか想像もつかないという状況でした。

 

 80年代には人も寄せ付けなかったBNPPが、2011年3月の福島原発の大事故の後に、原発を観光資源として観光客(主に日本から)を誘致しているというニュースを見たのは、20126月でした。完成して一度も稼働していない安全な「本物の原発」を観光用に活用しようと言うのですが、フィリピン政府のたくましさと同時に廃絶を決めた今もなお多額の費用をかけて維持していることに複雑な思いを抱きました。しかし、これはただの金食い虫の原発に、僅かながらも初めて新たな利用価値を見出した結果なのでした。

 

 コラソン・アキノ政権はBNPP廃絶を宣言したものの、慢性的な電力不足に悩むフィリピンでは、その後も内外にBNPPを復旧させようという流れはいつまでも続き、つい最近  20107月に今のアキノ大統領(息子)は正式に「バターン原発は再生しない」と宣言しています。これを再生しようとすれば更に10億ドルの経費が必要だということですが、フィリピン政府はBNPPを復旧させることはないと表明しながらも、「脱原発」を標榜しているわけではなく、将来の原発建設の可能性を否定までしているわけではないことを示しています。