私のジェトロ・マニラ時代(1982年11月~87年3月)     宮原 豊

 

 マニラではどの時代も様々な事件が起こりました。私にとっても、4年半ほどのマニラ生活はあっという間のことであった。初めての海外駐在でもあり、新鮮に驚き感動したことが数々あり、見聞したこと、会った人々、起こった事件も数多く、正確にいつ何があったのか思い出せない部分が多いです。四季がなく、いつの出来事だったのか年月が混乱してしまいます。時々の記録を頼りに、マルコス末期~アキノ政権初期の時代の記憶を解き起こしてみたいと思います。

 

《アキノ上院議員暗殺事件》

 何と言っても今から32年前、19838月21日(日)のアキノ暗殺事件です。あの日のあの時刻に私はマニラ空港にいたのでした。東京からの出張者(前々任の小林伸夫氏)を送りに空港に着いたのが午前11時ちょっと前だっただろうか、日曜日のことでもあり自分で運転していました。空港ビルの前ではUNIDO(後のアキノ政権の副大統領ラウレル氏がリーダー)のアキノ氏歓迎集会が開かれており、空港ビルでJALの支店長(片山氏)に会いました。「アキノ氏は昨日まで台北に居た。今日マニラに入ってくる」とのことであったが、その時間には中華航空はそろそろマニラ上空で着陸体勢に入っていたことになります。小林氏が出国ゲートをくぐったのを見届けて駐車場に戻ったが、駐車場周辺が兵隊たちで埋め尽くされている。仕方ないので、少し離れた木陰から様子を眺めていたが、なかなか動き出す気配がない。空にはヘリコプターが舞っている。一時間以上経っただろうか、ようやく整列・号令がかけられて、兵団は移動して行った。私が空港を後にしたのは130分頃だった。アキノ氏が暗殺されたのが1210分前後だから、私が空港ビルから駐車場に戻る頃にアキノ氏は銃弾を浴びせられていたことになります。

 

 帰宅して昼寝をしてしまったらしい。4時過ぎに電話で起された。小林氏からJALが機体整備のため足止めされていてまだマニラ空港にいるという。何かあったらまた電話を下さいと言って、テレビを点けてぼけーっとしていたら「アキノ氏が空港で銃撃され病院に運び込まれた。間もなく政府(軍トップ?)による記者会見が行われる予定」というテロップが流れ、いきなり画面はバスケットボール録画に。小林氏は日本に着くまでアキノ暗殺事件のことは知らなかったと後日聞きました。

 

 

 これに驚いて関係先に電話をするが(当時はケータイもないし)、日本人駐在員はゴルフにでも行ってしまっているのか、夕刻かなり遅くまで誰もいない。私の家族は江橋氏家族と一緒にバギオ旅行中であった。予定を早めてマニラに引き返してきたのは翌日遅くになってから。途中タルラックあたり(アキノ氏の地元)を通過するときは緊張したが、特に何事もなく平穏だったとのこと。前任の江橋氏は専門調査員としてマニラ日本大使館に勤務していました。その日はアトニ・ドーセや事務所のフィリピン人スタッフに電話して、テレビやラジオ放送を聞き、何かあったら連絡くださいと依頼。

 

 長く続く真相究明委員会のことなどは様々な書物に紹介されているのでここでは書きませんが、自分を取り囲む環境はこの日を境に俄かに忙しくなり、一日24時間では足りないような生活が始まりました。午前中は事務所で東京への政治経済報告の原稿をファックスで送り、午後はいわゆるAC事業CP の役所(DTIやエネルギー省)や工業会に出掛け、夕方は有志の勉強会に参加するか、あるいは出張者や新聞記者等と会い、帰宅は毎夜真夜中、時には夜中に自宅で執筆した。自分にとっては調査・情報収集と事業とを担当したのはメリットがあったと思います。(例えば)AC事業関係でプラスチック工業会との金型技術支援のお陰で、外貨事情が悪化する中で業界が輸入材料調達の困難さが日に日に困難になっていく状態が手に取るように分かりました。

 

 田口所長にはマニラ・ロータリークラブ主催の講演会によく連れて行ってもらいました。マルコスがゲストスピーカーとして来たことも何回かあり、政権維持に強気の姿勢を崩さず、スピーチは数字をうまく使用し、経済政策などに説得力があるように感じたものでした。特に健康危機が噂される度にタイミングよく講演会に登場してきたように思います。

 

 私の追いかけるテーマも、83年後半~85年は国際金融団とのリスケ交渉、経済停滞と国民生活、日系企業の活動状況、85年後半からは大統領選挙が焦点となっていました。83年秋ジェトロ事務所に吉次氏が来て、そのしばらく後に所長は津田さんから田口さんに交替。そして通産省からの出向所員も内山氏から佐藤氏に代わりました。いくら忙しくても週末は可能な限りカンルーバンやボニファシオ等々でゴルフをしました。

 

《イロコス紀行》

 

 マルコス大統領の生地であるイロコス・ノルテを訪ねたのもその頃でした。フィリピンの多くの島を訪が、ね、ルソンも北から南まで踏破したが、この旅行は印象深い。ココナツ庁デラクエスタ長官が帰郷するというので、政府専用ヘリコプターでラオアグに同行させてもらった。東京で面識のあったポンセ夫人の同行。途中パンナシガン上空で大統領府から電話があったが、彼はラオアグに着いてからコールバックすると伝え、そのまま飛び続けました。北部ルソン島の様子が8001000メートルの上空から手に取るように見えました。長官自らがココナツ栽培のメリットを農民に勧めるのを何ヵ所かの集会で聞きながら回ったイロコスの農村は、どこか日本の農村と似ていると感じました。

 イロコス滞在中に、マルコスの生家(母の家)、マルコスの育った家(マルコス博物館となっていた)、北のマラカニアン宮殿や地震で崩壊した聖ウィリアム大聖堂等を見てまわった。デラクエスタ氏の父上はイロコス・ノルテ州立病院の院長だった人で、そのころは退任して州立病院の真ん前の自宅でカウンセリング(診察)をしていた。デラクエスタ氏には何人か姉妹がおり、その一人が州立病院の医師と結婚していた。家族全員でラオアグから北方の砂丘の近くの美しいビーチで海水浴をし、バーベキューをした折、50歳ちょっと前くらいのその人と話しました。いくつか日本語を知っているという。「オイコラ」と「ドロボウ」という言葉を憶えているが、意味が分からないから教えてくれと真顔で言われた時には返答に窮した。終戦後40年を経た今も「まだいくつか日本語を知っているはずだ」と思い出そうと遠くを見つめるが、どうもその2つしか思い出せなかったらしい。結局日本はフィリピン人に何を残したのか、と暗澹たる気分に陥ったことを思い出します。

 

 ラオアグの隣町サラット(マルコスの生家のある町)の町で祭りがあると、デラクエスタ氏に誘われた。真っ赤なドレスを着飾ったベール将軍の母上(当時83歳)が颯爽と現れたのには驚いた。地元の学校で長く教職に就いていたという女丈夫であった。いくつかのスピーチが終わるとダンスが始まった。ベールのお母さんも元気に踊っている。デラクエスタ氏に踊って来いと言われたが、心得がないし将軍の母上に申し訳ないからと止めておいた。たまたま隣の席になり、マニラにいる家族(ベール将軍と孫たち)のことを聞いた時には、ちらっと寂しそうな表情を見せたのが印象的。その帰り道に会ったフィリピン人は、かの医師よりは7~8歳は年長であったが、時代が経っていたからか気を許し、戦後日本人と話すのは初めてと言いつつ、「荒城の月」を歌ってくれた。学校で習ったが、戦後40年間で初めて人前で歌ったとのことながら、メロディーも歌詞も完璧。胸にジーンとくるものがありました。

 

《エドサ革命とアキノ政権誕生》

 84年のアテネオ・デ・マニラ大学の卒業式にゲストとして夫婦で出席しました。ハイメ・オンピン氏(後にアキノ政権の大蔵大臣)のスピーチは政治的で、マルコス打倒に向けての宣戦布告だったと思います。アキノ事件の後はマカティのビジネス界は反マルコス活動を公然と支援していたが、政権側の反撃と恫喝に屈して足並みがそろわず静かになっていた。アヤラとソリアーノとの間のサンミゲル経営権をめぐる争いも、マルコス政権との距離に関する争いで、その間隙をついてダンデン・コファンコが漁夫の利を得たとも。あの頃のオンピン氏の胸中にはどのような成算があったのだろうか。その後の大統領選挙にアキノ未亡人を担ぎ出し、ラウレルを副大統領候補として反マルコスの統一候補とするのに尽力し、選挙戦に突入してからはマニラ・ロータリークラブやリサ-ル公園での集会でも活躍。双子の兄ロベルトはマルコス政権の最後まで貿易工業相にとどまっていたが、エンリレ・ラモスのエドサ革命のキッカケとなる役割を図らずも果たすことになったと言われる。87年の政争でオンピン氏とジョーカー・アロヨ氏が同時に更迭され、その後オンピン氏は自殺(と言われている)。アキノ政権初期の頃のオンピン氏の債務交渉の成果などを思うとまことに残念です。

 

 

 米国の強い圧力が強く、87年まで延期していた大統領選挙を前倒しして(86年早々に)実施することになった。実際に選挙になればマルコス有利だという声も聞かれたが、リサ-ル公園等での集会の動員力から見ても明らかにアキノ優位。地方でも都市部は明らかにアキノ有利。これも米国の圧力で、選挙管理委員会(COMELEC)とは別に民間の選挙監視委員会(NAMFREL)が組織され(双子の兄弟であるコンセプション兄が委員長)、COMELRCのサポーティング・アームとして正式に認知され、選挙においては投票所の管理、投票箱の管理、開票作業と開票結果の発表に活躍。一連の選挙開票の過程、両陣営の勝利宣言、エドサ革命(イエローレボリューション)、マルコスの国外退去、アキノ政権の成立に至る経緯は各種の本に紹介されています。

 エドサ通りに海兵隊のタンク(戦車)が繰り出したのは223日(日)の午後だった。その時は無謀にも自分で運転し、夫婦で見に行った。エドサをしばらく走ったらタンクに追いついてしまった。後続車両がいるので後戻りはできない。路上にすごい人が繰り出していた。咄嗟に反対車線にUターンし、マニラ電力会社(メラルコ)の裏手に駐車、エドサ交差点に急いだ。そこでは人々がタンクの走行を阻止していました。

 その日の早朝に基地周辺を見に来た時には、あまり人出は多くなく、今考えればあの時にいち早くマルコス軍が出動していたら、事態は全く違ったものになっていただろう。22日(土)の夕方にラジオを聞いた人々が集まり始めていたとはいえ、日曜日の朝教会のミサに訪れた人々に牧師がエドサに集結する様に呼びかけたために一挙に人が増えた。エンリレとラモスの立て篭もるクラーメ基地には知り合いの新聞記者が何人か取材に入ったが、外国人記者はある意味では政府軍の攻撃の楯のようなものでした。

 24日(月)、空軍のジェット機2機がエドサ上空を飛んだ。マルコス側から基地への攻撃命令を受けていたそうだが、すごい人出で空爆など出来る状態ではなかった。そのパイロットの一人がDTIナバレテ品質管理課長の弟で、後からそのエピソードを聞きました。

 

《若王子氏誘拐事件》

 アキノ政権が成立し、マルコス残党や不満軍人(ホナサン一派)が何回もクーデターを企てる。その都度ラモス国防大臣のアキノ支持声明により何回も危機を乗り切り、着実に改革の道を歩もうとする中で、アキノ大統領が日本訪問から帰った直後の8611月に起こった若王子誘拐事件は日比関係に大打撃を与えた。小指を切り落とされた写真が送付され、身代金が要求された。誘拐犯か特定できない中で、有象無象が誘拐犯との交渉を打診してきたそうです。

871月中旬、人質救出の大作戦が展開された日に、マラカニアン宮殿(大統領府)近くのメンディオラ橋近くで大事件が起こった。農地改革を要求する農民グループへの発砲事件は多くの死者を出し、アキノ政権への国民の信頼感が薄まった。その同じ日に、NHKが若王子氏解放の誤報を流し、マスコミはそれに躍らされた。その日夕方から毎日新聞の草野氏と会う約束になっていたが、この誤報のお陰で各社の特派員は夜中まで忙しく振り回された。この誤報騒ぎのおかげで、ひとつの重要なニュース(メンディオラで衝突、死傷者多数)が日本には全く報道されませんでした。

 

 アキノ暗殺事件以前はマニラには日本のマスコミは、新聞では朝日、読売、通信社の共同、時事の4社だけ。他の社は何かあればバンコク、シンガポールから特派員が出張するのが一般的であったが、事件のしばらく後から多くの特派員が常駐するようになった。しかし、いくらマニラでも毎日事件が勃発しているわけでないから、何かネタはないかと嗅ぎまわっている。社会部記者も経済ネタも追っかけろと本社から言われるのだろう、日本大使館かジェトロに来る。そのおかげで沢山の記者さんとお会いした。テレビ局が押し寄せて来てから、取材合戦は激化した。ニュースをゲンナマで買うらしいと、フィリピン人の知るところとなった。その裏を取ろうとしてゲンナマを使えば話は更に面白いようにどんどん展開していくのは必定だ。こんなところに誤報の遠因があったのだろう。

 

 

 アキノ大統領は、米国のマスコミの取材には応じるのに、日本のマスコミには会わないらしいと、日本の特派員たちが焦燥感をあらわにしていた。各社が単独でインタビューを何回申し込んでもマラカニアンの報道官との交渉は捗らなかった。日系プレスを対象とするアキノ大統領との共同記者会見は訪日直前にようやく実現した。そこで問題は、どこの社が会見に臨むのかということであった。4社時代からの古手は、記者クラブ的な既得権を主張して、新参には機会を与える必要はないと排除しようとしたという。特に日本に同時放映されるテレビを排除しようと言う意図があったのかもしれない。この辺の事情については、フリーの記者が後日談として雑誌に発表している。日本の記者クラブ体質を外国にまで及ぼそうと考えるのもおかしいし、テレビに先に報道されてしまっては新聞記事の価値が下がってしまうからと会見場から締め出そうと画策するのも見苦しい。もっともそれ以前にマニラでゲンナマの飛び交う情報収集もひどいものだった。新聞社は一般に取材費が限られているので(本当は自分たちももっと潤沢な資金が欲しいというやっかみからか)テレビに対する反発は相当強かったようです。大統領の訪日を前にした共同記者会見を前にして、そんな日本のメディア同士の争いはマラカニアンの報道官に馬鹿にされていることを、当の本人たちは気が付かなかったらしいです。

 

 若王子氏が解放される1週間前に帰国。長い波乱に富んだ時代に、無我夢中で走り回ったフィリピン生活だった。その後も、マカティでの銃撃戦(クーデター)、経済不振、ルソン島大地震、ヒナツボの大噴火と、相次ぐ人災、天災に見舞われ、電力不足が追い討ちをかけ、フィリピン国民は大変な生活苦を強いられました。フィリピンの友人たちと悲喜こもごも過ごした4年数か月、後ろ髪を引かれる思いであったが、その後数年間は更に社会環境が悪化するとは知らずに鈴木氏に後を託して873月に帰国しました。

                                                   (2015822日まとめ)


ジェトロ・日刊「通商弘報」への報告

 

 経済調査担当は、本部海外調査部や他の事業部からの指示されるテーマ別調査報告とは別に、日刊「通商弘報」へ適宜、現地の経済・産業事情、そして政治社会情勢について報告することが求められている。ミニマム・デューティは年に20本程度であったので、大して重い責任ではなかったが、当時のフィリピンは政治経済の大きな事件が重なり、報告すべきテーマが次から次にと出てきた。そのために、4年半ほどの間に約240本の記事が掲載されている。

 今考えると、どういう生活をしていたのか自分でもよく理解できない。ただ若かったとしか言いようがない。毎日のサイクル、週のサイクルを思い起こすと、平日は朝8時起床、朝食を摂って9時に事務所出勤(自宅から事務所は車で5~10分)。事務所で現地英字紙(2~3紙)に目を通し、前日の本部から連絡文書をチェック、必要な事項を調査担当スタッフ、事業担当スタッフと協議、業務指示を出して、昼食に帰宅。ビール小瓶(サンミゲル)を1本飲んで昼食、30分昼寝し、1時に家を出る。昼食の約束があったり、午前・昼食時間・午後に外出や来客の予定があれば、当然それに対応。午後は、夕方5時頃まで原稿書き・現地企業や経済産業団体訪問、6時~9時に夕食懇談(日系企業駐在員との勉強会・情報交換等々)、その後はカラオケで息抜きをして夜中の12時に帰宅。シャワーを浴びて就寝。毎日カラオケをする訳ではないが、半分くらい自宅で原稿書き。翌朝はまた8時に起床。平均睡眠時間は5~6時間であるが、30分の昼寝で体力回復。

 

 そして週末は土日のどちらかはゴルフ、夕方に帰宅。たまに家族サービス(家族は全く記憶にないと言うが、スポーツ・クラブ会員になっていたので、そこでプールに行ったり、日帰り旅行をしたり)。クリスマス、イースター等々には遠出の家族旅行もした。4年半も駐在していれば、3回ほどの一時帰国の権利があったが、1回しかその権利を行使しなかった。

 

 日本からマニラの駐在員生活を垣間見ていた口の悪い友人は、毎日飲んで遊んでばかりいたのではないかと揶揄うが、ここに通商弘報等への投稿原稿のリストをご覧にいれる。写真のように3冊にブック・バインディングされている。短信もあるが、経済レポートなどは毎回かなりの分量になる(B5判三段組み、紙数にして500ページ)。後から読み直して見ると、よくぞあれだけの分量のレポートを報告したものだと思う。ジェトロの調査や事業の他に、外部からの執筆依頼などもあり、フィリピンの政府関係者・業界団体・調査機関と会ったりしているので、駐在員仲間と遊んでいる時間はあまりなかった。皆無とは言わないが、遊んでいるように見えても、人との会食は全て重要な情報収集の時間であった。

 

「通商弘報」は2018年4月からジェトロ「ビジネス短信」として、世界の政治・経済に関する制度、統計、市場動向などを掲載しています。当時は「短信」的な速報記事も重要ではありましたが、B5判三段組みにして5~6ページのある程度まとまった現地の経済産業情報の提供と解説をしました。特に速報性が求められるものは、現在は電子版と思いますが、当時は購読者に印刷物を毎日郵送していました。

 

そのような通商弘報の掲載例として紹介するにはちょっと変わったテーマです。これは通商弘報用に書いたものではなかったので、よくこのような紀行文をビジネス専門誌の通商弘報に掲載してくれたものだと思います。この時はアキノ元上院議員暗殺事件の8か月後で、暗殺事件に端を発する不安定な政治経済の状況でしたから、マルコス大統領のことなら何でもよかったのかもしれません。

 

マルコス大統領の故郷を訪ねて(フィリピン)

                        •マニラ・ジェトロ発(1984年4月8日掲載)

 

 ルソン島の北端に位置するイロコス・ノルテ州はマルコス大統領の生まれ故郷として知られている。山がちの辺境地で台風の通り道のため、フィリピン国内でも必ずしも恵まれた自然環境とは言い難い。しかし、風景は日本の田園風景によく似ている。

 ルソン島中央部のブラカン、パンパンガ、タルラック、パンガシナンの各州は広大な稲作地帯であるが、パンガシナンを過ぎて北に向かうと急に山地が多くなってくる。ルソン島北部の南シナ海に面した西半分をラ・ウニオン、イロコス・スルーと北上していくとイロコス・ノルテにはいる。海から狭い平地を経て山地が迫っている。

 マニラからのヘリコプターの窓から見ると、乾期のため大きな川にもほとんど水が流れていない。流れてきた水も途中で消えて、地下に潜ってしまい、再び下流で地上に出てきたりしている。

【長寿の町~大統領の生誕地サラット】

 イロコス・ノルテの州都ラオアグ市から東南8キロ、大きな川の辺りにサラットの町はある。マルコス大統領の生誕地である。生家は現在は「マルコス博物館」になっているが、大統領の生まれた当時のままに保存されている。それほど大きな家ではないが、しっかりした造りである。大統領の使っていた部屋やベッドもそのまま残されてる。

 マルコス大統領の母親は94歳で存命だが、現在はサラットには住んでいない。大統領の側近、ベール将軍の母親は84歳で、頗る元気で今もこの町の小学校で教えている。

 この2人の母にみならずサラットの人々は長命だといわれる。新鮮な魚と野菜が秘けつだという。大統領の健康不安が政治問題になっているが、案外と87年の大統領選挙にも元気で出馬するのかもしれない。大統領の好物は「アルコン」という野菜(つくしの煮物に似ている)で、サラットからマラカニアン宮殿に毎日のように運ばれているという。ガメットという海藻、ポクトと呼ばれる川魚(骨は堅いが、カラ揚げにして頭から食べられる)がアルコンとともにイロコスの名物である。自然食品に恵まれ、それを人々は好んで食べるため、長寿の町になるのも当然のことなのかもしれない。

 サラットと言えば、マルコス大統領の末娘アイリーンがアラネタ財閥の御曹司と83年6月に結婚式を挙げたサンタモニカ教会もここにある。

 その直後の8月17日にイロコス・ノルテを襲った「この世の終わり」を思わせる大地震で教会の屋根やれんが壁も崩れ落ちてしまった。大統領が腎臓の手術をしたといわれる時期で、就任間もない州知事フェルディナンド・マルコス・ジュニア(通称ボンボン・マルコス)が復旧の陣頭指揮をしてた。この地震でイロコス・ノルテは広範にわたって被害を受けたが、現在もサンタモニカ教会だけでなく各地にある教会の塔が崩れ落ちたままである。

【バタックとパオアイ~イメルだ夫人の評判】

 バタックはラオアグ市から南に17キロのところにある。マルコス大統領の父の家がある。現在はやはり博物館になっている。大きな構えの2階建ての家で、大統領の着用したバロンタガログ(民族衣装)から受賞した数々の勲章、新聞記事等々あらゆるものが飾られており、後世のマルコス研究者にとっては欠かせない豊富な資料となろう。今は時節柄か、訪ねる人も多くない。イメルダ夫人との結婚式や若き政治家として華々しく登場したころの写真を見ると、本当に仲睦まじく、65年の大統領選挙での勝利もミス・インターナショナルとして評判の高かったイメルだ夫人に負うところがかなり大きかったのではないかと想像する。

 マルコス大統領の故郷でのイメルだ夫人の評判は必ずしも芳しいものではないとマニラでは聞いていた。しかし、地元はマルコス大統領の夫人という理由以上に人々に人気があるようだ。地震や台風の時の見舞いがものをいっているわでもあるまいが、イメルダ夫人に1回でも身近に接した人は皆、夫人の人柄に魅了されてしまう。イメルダ夫人はそういう雰囲気を持っているというのが、マルコス生誕地で多くの人から聞かれた声であった。しかしこれは、イメルダ夫人に接したことのない人々にとっては一般的に不人気であることの裏返しであり、そのことを意識しての発言だという印象も受けた。

 パオアイはバタックの直ぐ西隣りにある。湖の辺りにスポーツクラブ、ゴルフ場があり、その奥に「北のマラカニアン宮殿(大統領官邸)」がある。湖の対岸からみると赤い屋根が緑の中に映える。静かな保養地といった雰囲気だが、目立たないところに銃を構えて兵士が監視している。この国の政治環境の厳しさを改めて思い起こさせる。同じルソン北部のカガヤン州やイザベラ州では新人民軍がかなり勢力を拡大していると聞く。

(MLA-73 -825 )


通商弘報(1982年12月~1983年12月)

1982年11月 日 マニラ着任

            1220日 輸出産業のストライキを事実上禁止へ 

198318日  輸入税を一律3%引き上げ

   111日  反響呼ぶ輸入課徴金

   126日  81年の輸出上位200社にみる輸出動向

   32日   原油値下げの影響

   317日  83年の丸太輸出割当を発表

   46日   ベトナムとの経済貿易関係

   412日  輸出急増した対北朝鮮貿易

   418日  外貨支出抑制措置を発表

   423日  82年経済と83年の展望(その1)

   426日  82年経済と83年の展望(その2)

   59日   83年投資優先計画を発表

   511日  中曽根首相訪問の反響 

   613日  82年外国資本導入実績(中銀)

   627日  ペソ、大幅切り下げ

   76日   82年のアセアン貿易~慢性的赤字

   77日   本年第1四半期の国際収支と対外債務状況(その1)

   78日   本年第1四半期の国際収支と対外債務状況(その2)

   816日  衣料品産業の現状と展望

  (8月21日、アキノ元上院議員暗殺事件発生)

   828日  82年の輸出加工区 

   831日  旅行者の外貨持ち出しを制限

   99日   大統領、政府の安定性を強調(外国人ビジネスマンと会見)

   99日   ビザ発給問題、一応解決

   912日  中央銀行、新輸入抑制措置を通達(消費財565、乳製品20品目)

   913日  83年上半期の経済概況

   928日  価格志向強まる水産缶詰市場

   105日  ドル建て財務証券を発行 

   106日  ペソを再切り下げ

   107日  ペソ再切り下げの背景

   1018日  90日間の債務返済猶予を取りつけ~外銀10

   1020日  外貨保有高が急落

   1021日  90日猶予と貿易金融

   1021日  83年上半期の国際収支

   1022日  9月末外貨準備高を発表

   1029日  選別的なL/C開設~400品目指定説

  《837月海外市場 フィリピン「引き続く構造改革の歩み」 》

   1114日  貿易金融措置を発表~中銀、一連の通達

   1119日  IMF, 6.3億ドル融資を承認

   1125日  動き出した政局~イメルダ退陣

   123日   日本人商工会議所、オンピン大臣と会見 

   1215日  外資導入基準を緩和 

   1221日  最近の物価動向

   1223日  ラヤ中銀総裁、日本人商工会議所と会見

           1224日  1~9月の経済動向(その1)

   1226日  1~9月の経済動向(その2)

   1226日  外貨準備、ややもち直す

  《プロジェクト情報:経済開発計画ならびに主要開発プロジェクトの進捗・見直し状況》

   1228日  原材料入手難で苦しい工場操業

通商弘報(1984年1月~12月)

1984113日   ラヤ中銀総裁、文相に(短信)

    114日   中銀総裁にフェルナンデス氏(ファー・イースト・バンク会長)

    127日   懸念されるIMF融資決定の遅れ

    130日   レイオフ、インフレが進行~日系企業操業困難に

    21日   国民投票結果の中間報告~副大統領制導入

    24日   D/A,O/Aによる輸入の制限、緩和さる

   《ジェトロ・スペシャル・レポート 後の VIP300 No.1:切迫するフィリピン情勢》

                         《同上:操業維持に悩む日系企業》

    29日   カウンター・トレードへ傾斜

    2月22日  デザイン、品質で評価の高い日本製魔法びん 

    35日   砂糖公社の独占体制に終止符

    36日   生活実感からみた物価上昇

    38日   国立所業銀行会長が辞任

    321日  苦境に立つ自動車産業

    322日  部品・原材料の輸入に新措置

    324日  フォード、撤退を発表

    331日  最近の経済・貿易動向(その1)

    42日   最近の経済・貿易動向(その2)

    45日   輸入制限措置の一覧(8310月以降)

    413日  輸入課徴金を3%引き上げ

    414日  3回目の90日間債務支払い猶予

    418日  国民議会選挙の動向(81年戒厳令解除後初)

    419日  トライシクルの周辺

423日  フィリピンの水産缶詰事情(週刊・農林水産物の貿易)

425日  輸入代金を資本繰り入れ

427日  84年外貨資金計画と支援期待

428日  PNB,デルタの資産を売却~トヨタは既に契約延長しない方針

59日   ペソ切り下げの見通し

512日  大詰めの国民議会選挙

517日  政治変革を求める民意

528日  国民議会選挙中間経過

64日   IMFの承認さらに遅れる見込み

67日   ペソ変動相場制に移行

69日   ペソ切り下げに対する反響

〃      石油製品価格を大幅引き上げ

613日   ペソ切り下げと関連施策

621日   ペソ切り下げ関連措置への反

628日   84年原油輸入見通し~迫られる省エネ

72日   D/A.O/A輸入による為替予約制度を変更

73日   大詰めを迎えて難航するIMF交渉

74日   新内閣発足  

79日   IMF交渉に関する最近の論評

710日   懸念される諸物価急上昇

711日   輸出企業の機械設備輸入を一部許可

724日   経済低迷のなかで政治の季節に

    727日   新国民議会開会さる

    728日   戦後初のマイナス成長へ                                  

 

                                             ここまでBook 1

    731日   輸入制限措置の影響が大きい水産缶詰市場

   《月刊海外市場8月号 国運かけて輸出増進~フィリピン》

    831日   IMFスタンドバイ・クレジット交渉、」9月中に最終決定か

    98日   8487年経済開発計画の見直しを発表

    920日   最近のペソレートの動き

    926日   経済安定化税を一時中止

    929日   試練に耐える日系企業

   《VIP300 No.6 9.25  苦難に耐える日系企業~将来に期待し踏みとどまる》

    105日   最近の外国為替取引の動き

    106日   84年上半期の経済と今後の見通し

    1018日   IMF,趣意書を正式受理

    1129日   マルコス大統領、85年政府予算を承認

    1215日   駐在員の生活コスト調査~1年半で幅2倍に

    1217日  外為管理に新システム~完全な変動相場制を目指して

    1224日  IMF融資と経済プログラム

 

通商弘報(1985年1月~12月)

 

 1985年17日   パリクラブと公的債務繰り延べ最終合意

    123日  中銀、米ドル建て債券発行へ

    26日   最近の労働市場~失業の増大

   《日本工業新聞2.6 新年の話題:これからが始まり~耐乏生活》

216日   広がるカウンタートレード・フィリピン アジア(その3)

   《海外プロジェクト情報 85.2.15 開発路線を見直すフィリピン》

   《VIP300 85225 まん延するカウンター・トレード》

    38日   外相解任、労相も辞表提出~与党分裂の兆し

    313日   見直される開発路線

    314日   品質改良で輸出拡大図る家具産業

    319日   外貨事情悪化の影響が大きい魔法びん市場

    42日   84年の経済貿易動向

    43日   遅れている新規ローン交渉と2回目のIMF融資(その1)

    48日   遅れている新規ローン交渉と2回目のIMF融資(その2)

    〃     マルコス大統領の生まれ故郷を訪ねて

    51日   わが国の対外経済対策に対する反響

    516日   危機に直面する砂糖産業

    523日   半導体産業の現状

    525日   ようやくまとまった外国銀行団との金融交渉

    528日   三菱自工・日商岩井、カルコ社株式を100%取得

    617日   危機に直面するフィリピンの砂糖産業と米国側の事情(農水)

   《日本工業新聞85.6.20 労働組合事情~スト増え争議長期化》

    73日    関税アクション・プログラムに対する反響(フィリピン)

    711日   見通し暗い85年の経済動向(大きく落ち込んだ第1四半期)

    83日    第2回通常国会開会式で大統領が所信表明

    812日   大統領選挙をめぐる最近の動き

    911日   見通し不透明な水産缶詰の輸入(9.24 農水産物の貿易にも掲載)

    1023日   85年上半期の経済貿易と今後の見通し(その1)

    1024日   85年上半期の経済貿易と今後の見通し(その2)

    116日   引き続く経済活動の停滞と今後の見通し

    1111日   大統領選、117日実施へ

    1130日   高まるジェンキンズ法案への反対~ガーメント産業

    122日    政府系企業の現状と問題点

    1212日   大統領選挙の日程と今後の動向

               1223日   最高裁、合憲判決~本格化する大統領選挙戦

通商弘報(1986年1月~1987年3月)

 

1986年 19日     対比輸出にSGSの輸出検査を義務付け

    111日    IMF,スタンドバイ融資を実行

    113日    対比輸出検査義務は廃案に(SGSとの契約廃棄)

    114日    最近のプラント輸出(開発計画)

    21日    大統領選挙(27日)と今後の動向

    〃      フィリピン政治情勢に対する米国の味方(米ニューヨーク発)

    25日    野党陣営の経済政策

   (2月7日   大統領選挙)

    27日    タイ紙にみるフィリピン大統領選挙論調

    210日     開票遅れる大統領選挙結果

    212日     混迷する大統領選挙

   《210日出校 「世界週報」96.225 米国の対比援助の背景 6ページのレポート》

    214日   選挙後も予想される先行き不安(米ニューヨーク発) 

〃       OBU(オフショア・バンキング・ユニット)の業務範囲を拡大か 

    215日    ペソ・レート下落

    217日    固まりつつあるマルコス再選

    219日    高まる反マルコス機運(米ニューヨーク発)

    220日    中銀、金利を大幅引き上げ

    222日    マルコス再選に対する論調(タイ)                  ここまで Book 2

    (2月22日  エンリレ・ラモスのアギナルド基地籠城、エドサ革命の勃発)

   (2月25日  マルコス大統領一家の国外脱出)

    228日     正常化へ向かう市民生活(25日夜マルコス国外脱出)

    〃        明暗分ける日系企業(アキノに期待と不安)

    31日     アキノ新政権の閣僚とその横顔(その1)

    33日     アキノ新政権の閣僚とその横顔(その2)

    〃       米国から見たフィリピンの一連の動き(米ニューヨーク発)

    312日      革命政権宣言の可能性

    313日      新5カ年経済計画策定へ

   《VIP300   国際金融支援の確保を目指す、対IMF交渉に向け、情勢は好転 》

    45日      マルコス資産を凍結(スイス・チューリッヒ事務所発)

    47日       SGS社への輸出検査委託が再浮上

    410日    フィリピン情勢への各界の反応は冷静(タイ・バンコク事務所発)

    411日    政権内に不協和音(オンピン蔵相)

    412日    新政権の当面の経済運営

    414日    サンミゲル社株式売買凍結か

    416日    主要国における円高の影響(マニラ)

    〃       アキノ政権の評価は慎重(シンガポール事務所発)

    〃       2年連続のマイナス成長

    417日    アキノ政権に好意的(米ニューヨーク事務所発)

    〃         経済政策のビジョン

    418日    対比政策は不変(仏パリ事務所発)

    419日    対比関係は希薄(英国ロンドン事務所発)

    424日    信頼回復へ協力を要請(オンピン蔵相)

    428日    リスケ後の総合収支は黒字             

    510日    輸入自由化を段階的に実施(先ず143品目)

    515日    原発プラント棚上げへ(ソ連の原発事故が決断を促す)

    521日    サンミゲル社の役員選出を見送り(難航するソリアノ復権)

    523日    アキノ政権の布陣、ほぼ整う

    526日    SGS社の輸出を一時中断か

    531日    セメント産業の生産調整に新基準を設定

    63日      憲法起草委員に44名を任命

    〃         石油製品価格を再値下げ

    64日      憲法起草委員に野党から5名を任命

    67日      政府系企業の5年以内改革を発表

    〃        召集前から駆け引き(憲法起草委員)

    69日      SGS社の輸出検査続行

    611日    北ルソン山岳道路の修復工事(熊谷組が一部受注)

    613日    輸入自由化の第2

    625日    SGS社の輸出検査を中止

    630日    最近の投資概況と投資環境

    716日    貿易工業省の決まる

    726日    86年第1四半期の経済動向(政変前後の大混乱期を乗り切る)

    731日    対外債務の株式への転換を検討

    85日      輸入自由化とIMF交渉

    88日      IMF交渉、おおむね合意

    814日    対IMF交渉と今後の経済運営

    815日    政府系金融機関の改革に世銀が3億ドル融資

    822日    91年に100億ドルの輸出目標を設定

    825日    冷え込み著しい地方の消費

   《VIP300      一石二鳥の債務処理(フィリピン)~アジアで初めて「債務の株式化」を採用》

    829日    石炭火力発電所を建設へ

    91日      共産主義者対策などを議論(アキノ・スハルト会談)(ジャカルタ発)

    98日      丸太輸出全面禁止措置について(農水産物の貿易にも掲載)

    924日    メトロ・マニラ高架鉄道第2号線計画が再浮上

    927日    電力プロジェクト6件の早期実現を承認《海外プロジェクト情報にも掲載》

    1022日     86年上半期の経済貿易概況~プラス成長困難に

    111日    IMF,対比融資を正式承認

   (11月15日   三井物産 若王子支店長誘拐事件発生)

1119日    アキノ政権下の外国直接投資の概況

1121日    最近の政治・治安状況(その1)~1115日若王子誘拐事件

1122日    最近の政治・治安状況(その2)

   《投資白書   「投資摩擦の発生状況」とその解消・予防法》

    126日    輸入税の評価基準を変更

    1210日     アキノ政権の新閣僚

    1215日     新投資奨励措置

    1224日     政府系企業の民営化計画を開始

198716日      期待される経済回復

    122日    地方選挙の日程決まる

    124日    国民投票を控えての最近の政治状況

    127日    新労働大臣と今後の労使関係

    23日      SGS輸出検査、再浮上か

    216日    バターン加工区のストライキ下火に

    217日    比国民投票の結果を歓迎(インドネシア・ジャカルタ発)

    218日    最近のプラント動向

    219日    労働法改定へ

    220日    新憲法批准後の政治日程~5月の国会議員選挙に焦点

    227日    輸出加工区の韓国企業、操業開始へ

    33日      新局面を迎えた債務繰り延べ交渉

   (3月25日 香港経由で帰国)

   (3月31日 若王子支店長 解放される)