カダフィ大佐の国・リビア訪問記

 

1981610日に日本を出発、パリ経由、ローマでアリタリア航空に乗り換えてリビアに飛んだ。トリポリに12日到着、15日に出国の予定で航空便を組んでいた。トリポリの後はアテネに飛び、そこから18日カイロに行き、カイロからはジェトロ・カイロ事務所の江川所長と合流してサウジアラビア(ジェッダ、リヤド)とクエートを訪ね、その後バンコク経由で71日に帰国するという3週間ほどの中東出張であった。

 

(隠された)本来の目的は、中東市場のプラント・プロジェクト情報収集であったが、このような目的ではリビア、サウジアラビア、クウエートの入国査証(ビザ)は下りないだろうと、表向きは各国の見本市事情を調査することを目的に申請し、出来る範囲で(無理せずに)主目的のプロジェクト情報収集の委託先となり得る人物にコンタクトするという微妙な業務内容であった。特にリビアと米国の関係が険悪化し、ビジネス環境も悪化していたが、原油産出国であるリビアにはプロジェクト関係メーカーや商社など日本企業も進出しており、「トリポリ見本市」復活に期待が寄せられていた。

 

リビアに入国するのに何故パリに入ったか、これはトリポリに滞在中ずっと頭痛の種となるリビアからの出国便のためであった。トリポリからアテネに行くにはリビアン・エアー(LN)で日に2便あるが、日本からでは座席確保がコンファーム出来ないという。旅行会社が如何に手を尽くしても確認不可能であるので、パリシャンゼリゼ近くのJAL事務所からリビアン・エアー支店でコンファームしてくれと言う。アリタリア航空の拠点のローマにはリビアン・エアー支店はないので先ずはパリに向かった。業務的にはリビアの後はエジプトなのだが、その当時兄弟のような隣国同士のリビアとエジプトは国交断絶、国境が閉鎖されており、航空路線も閉鎖されていた。トリポリからカイロに行くにはアテネ経由かローマ経由でなければならない。ところが東京では、トリポリ発の便はどれも満席、唯一の可能性がトリポリ発アテネ行きであり、問題は入国前にコンファームできるかどうかにかかっていた。後から考えれば、こんな状態でリビア入りすることはリスクが高すぎてやめるべきではあった。しかし、無知なるが故に恐れを知らなかった面もなくはないが、パリまで来ていながらリビア入りせずに東京に戻るかカイロに向かうという選択肢は想定していなかった。

 

その間の業務については、リビア滞在中に書き留めた【1】機械部長宛てならびに【2】機械部計画課長補佐と同僚に宛てた2通の報告に詳しいが、正直に言うと後者が面白いのでこれを掲載する。リビアから投函しても日本にいつ着くか分からないので、近く日本に帰国するという丸紅駐在員に託送した。ワープロもなく元は手書きの走り書きである。そして【3】貿易保険関係をまとめたが、いずれも仕事の記録であるので、ここでは【1】と【3】は割愛し、仕事以外の話題をアップします。

 

この手紙【1】~【3】を書いた時点では想像もしなかったハプニングがその後起こるのであるが、続きは【4】と【5】として記憶に基づいて後述する。

 

写真:パリ(JALとJNを訪ねた時)、アリタリア航空の機上で、トリポリの町(1~3)、宿泊したホテル

2】《機械部計画課プラント班一同宛て私信》:(1981615日夜、トリポリ丸紅の寮にて)

これは出発前夜に書きまとめたもので、前記の部長宛て公信は、特に表向きの業務の見本市について報告したもの

 

プラント班の皆様

 

 612日(金)に予定通りリビアのトリポリ空港に着き、丸紅トリポリ支店の小川氏に出迎えてもらいました。ホテルはリビア滞在の先行き不安を最初から思い知らされるものでした。トリポリではトップクラスのホテルの一つであると言われるLibyan Palace HotelBeach Hotelの次、Mediterranean Hotelより上)に投宿できたのでやれやれでした。しかし、「予約してあっても泊まれないことがある。変更は当たり前」が当然とは、一体何のための予約でしょう。

 

空港の建物等は素晴らしいものでした。表示は全てアラビア語であると言う中で、イミグレの手前に天井から下げてある大きなプラスチック・ボードに英文で「Partners, Not Wage Workers」とスローガンが掲げてありました。これはもちろんグリーン・ブックの中の一節で「賃金労働者ではなくパートナーである」というスローガンですが、これだけが英文と言うのも異様でした。スローガンは理想や目標を表現するものだとしたら、これは現実の逆を表現しているのだろう。そして、これだけが英文で書かれているのも見て、結局リビアの経済は外国人賃金労働者(特にエジプト人や近隣諸国の人々)に金に物を言わせて働かせて社会が成り立っているという現実を如実に示しているのだと思わせられました。リビアの人口300万人に対し外国人は50万人と言われ、ある人が「近代外国人奴隷制社会」と表現していました。

 

もちろんカダフィのグリーン・ブックの中で、「Partners, Not Wage Workers」というスローガンは、リビア人自身の直接民主主義への参加と労働(勤労)に対する意識改革、それによる生産性向上のために言われているものです。ところが、他にいろいろ並べられているポスター類は全てアラビア語なのにこれだけが英文ですから、(真意はよく分かりませんが)その意味をそのまま素直に読むことにはならず、しかし深読み・裏読みするときりがないです。➀外国企業(先進国企業)はリビア人を単なる賃金労働者として扱い、そこから収奪するな、技術移転をしろ。もう一つは➁外国人賃金労働者諸君、君たちは単なる賃金労働者ではない、パートナーである。リビアのためによく来てくれたと歓迎しているのかもしれないです。私の偏見かもしれませんが、入国早々にこのスローガンから様々なことを考えさせられました。

 

それにしても、(12夜の様子により)滞在中の待遇はバツグンに悪いと言わざるを得ず、ホテルのレストランで知り合ったエジプト人やアルジェリア人はともに皮肉たっぷりに「この国はVery Goodだ、この国にServiceというConceptが少しでもあれば」と言っていました。

私の泊まった部屋No.540は日本のビジネスホテルのシングルルームより狭く、先の小川氏も部屋を見て、こんな代物(物置のような部屋)は初めて見たと言い、それでもソファー・ベッドはもちろんシャワー、洗面所、トイレ、電話と揃っているし、「リビア人にしては見事な空間利用である」と妙に感心していました。

 

さて、今日(15日)の朝は、予定通りならギリシャに向けて飛び立つはずで、トリポリ空港に向かっているはずなのですが、何故かまだトリポリ市内に残っています。それもホテルを締め出されて丸紅さんの寮に1泊させてもらい、(1日遅れながら)明朝10時にベンガジ経由でアテネに向かうことになります。

阪神トラベル(武田さん)には、JAL(パリ事務所)経由で最後の最後まで予約確認をリクエストしてもらっていたのですが、リビアン・アラブ航空(LN)は東京に事務所もなく、結局パリかトリポリで、自分でやってくださいと言うことで、先ずはパリまで来ました。JAL事務所で今までのリクエスト状況を聞きましたが、男女2名の日本人駐在員もフランス人女性も、私の質問を無視しました(気のせいか、横を向いてニヤリと苦笑したようです)。東京のJAL本社から聞いているはずだが、私達にはどうしようもない、お手上げだと言っていると薄々感じました。

 

LNのパリ事務所はシャンゼリゼのJAL事務所の真向いのビルの2階にあるにもかかわらず、そこには看板もなくJALのスタッフもそこを知らないと言うことでした(LNは相手に出来ないという言い訳のように聞こえました)。今まで航空券発券会社のJALに依頼してきたのは何だったのか、期待してきたのを後悔しながら、自らLNの事務所に駆け込みました。そこには英語のよくできるフランス人の中年女性が一人在席しており、用件を伝えたところ、「本日(11日)はNational Holiday(米軍撤退記念日)、また12日(金)はアラブの休日、本国にTelexしても13日まで何も返事は来ないだろう。コンピュータ・オンラインもないからここではRequestingの様子は何も分からない。トリポリでどうぞ」と丁寧ではあるが、取り付く島もありません。

 

しかし、これで最初の目的国であるリビア行きを止めて、アテネかカイロに向かうと言う選択肢はなく、翌12日にローマ経由アリタリア航空でトリポリ入りしました。トリポリで判明したことは、学校が夏季休暇に入ったので、エジプト人教師が家族とともに本国に帰るためにトリポリ発の飛行機は全てFull Booking。トリポリ=カイロは、現在政治的理由から航空便はなく、彼らはアテネ経由でカイロに向かうという訳です(これは私も同じ理由です)。トリポリ=アテネ間はLNOlympic2社が運航しているが、どちらも2526日までは空席がない(その頃になれば確実に乗れる)と言うではないですか。トリポリ=>ローマ=>アテネ、トリポリ=>チュニス=>アテネはどうか、いずれもアテネ直行が満杯なのでその変更組が多く、どの便もフル・ブッキングでした。

 

出国便確保については、私の受け入れに協力いただいた丸紅さんには大変迷惑をかけしてしまいました。15日(月)に空席が一席あると言うので丸紅現地職員に押さえてもらったはずですが、いざチケット書き換えの段になってNoでした。運悪く14日(日)にアリタリアがストをやったために15日にしわ寄せがきて、確保できなかったと言うのです。フランクフルトかロンドン経由か、チュニスかローマ経由か、いろいろトライしたけれど惨敗。アテネ便は最低でも45日後でなければ乗れないというので、万事休すと言う状態に陥りました。

 

こういう事態になった理由の一つがリビアの学校教師ですが、今や敵国のエジプト人がリビア学校教師の60%を占めていると言うから驚きです。そこにラマダンが近づいているのも飛行機が混んでいる理由だそうですが、この時期に出張を設定したのが間違いだったとしか言いようがありません。

 

ホテルも追い出され、これ以上(45日も)トリポリに足止めを食らっている訳にも行きませんので、いよいよ最後の手段とばかりに人を介してリビアン・エアー本社の幹部に直談判を試みたのが本日15日午後の事です。ビルの入口でパスポートを預けさせられ、不安を抱きながらその幹部の部屋に通され、事情を説明すると、何といとも簡単にConfirmation欄に「OK」と書き、スタンプを押してくれたのです。何の見返りもなく、ただこちらの真剣で強烈な要望に応じてくれたのです。

これは多分(というより明らかに)Over Bookingでしょう。彼はコンピュータなど覗き込んだ形跡もなく、分かったと言って手続きをしましたが、結果をコンピュータに反映させた素振りもありません。上から言われたからなのか、うるさい奴を黙らせるためで、後のことは知らない(自分の責任ではない)ということでしょう。

 

こうして1日遅れの16日(火)1000 LN152便(ベンガジ経由アテネ行き)の「OK」をもらいました。しかし、これは明らかに早い者勝ち、明日の朝は早めに空港に向かい「押しの一手で行かないと乗れない」と覚悟を決めて、今はヤクザの果し合い前夜の気分です。

 

プロジェクト情報関係について報告します。

表向きの公式な出張目的である「トリポリ見本市参加問題」については別途機械部長宛ての公信をご覧ください。

 

UNDP(国連開発計画)事務所で、日本人スタッフがいました。オシダリ氏(UNプロパー職員、忍足と書くそうです)よりEconomic Planningにおけるプロジェクト形成の過程等について聞き、同氏の紹介でUNIDO専門家のLight Industry Ministryの技術コンサルタント(ドイツ人)から話を聞きました。この国の場合は(予想通り)、一般論としては情報提供者(コレポン)を探すことは困難であると思います。

 

➀新5か年計画は計画省(長官はアブ・フレイワ氏=リビア日本友好協会会長、昨年日本リビア友好協会の招きで来日)が立てたものであるが、UNEconomic Planning Team(東欧・ソ連人が多い)が実際にはアイディアと具体的展開手法を提供したとのこと。

UNスタッフは各省庁にProject Teamとして派遣されている。UN専門家の専門性とリビア政府との間で、展開方法等でよく違いが生じるらしい。例えば、UN専門家はあるプロジェクト展開で、Pilot PlantCase)を作って、その成功を見た上で徐々に進めようとするのに対し、リビア側はDrasticRevolutionaryな展開を希望する場合が多い。

UNとしては各省のバラバラなプロジェクトに政策的整合性を持たせるために、Economic Planningを中枢とするスタッフを各省にアンテナとして配置したらどうかと提案している。

➃リビア政府はTraining(メンテナンス等の人材育成)という点に大きな関心を寄せている。

 

以上について詳細は帰国後に報告しますが、ビザ申請上の理由にトリポリ見本市参加可能性についてヒアリングし、見本市会場がどうなっているか調べるという目的があり、それより出国便の手配の事で頭がいっぱいなので、時間的にもあまり踏み込んだ調査が出来ませんでした。見本市について公信とは別に次の点について補足します。

 

リビア日本友好協会(会長は前述のアブ・フレイワ氏、事務局長ティーバー氏)が日本の参加を強烈に働きかけているところに、先方からしてみれば、「飛んで火にいる夏の虫」のようにジェトロ職員が現れたのですから、火に油を注ぐことになり、同事務局長は日本商社からもジェトロに参加するよう強く要求し、私に対してもすぐに良い返事をしろとばかりに迫ってきました。私はコミットできる立場にはないのですが、それを言っては何のために来たのかということになってしまいます。和田大使は間に入って、先方をあれこれなだめてくれましたが、大使とてジェトロが参加してくれることを強く望んでおり、特に813月は大使が板挟みになり苦労されたので、ジェトロの協力に期待しているのであります。

 

トリポリ見本市の話題は出来るだけ避けたいと思っていたのですが、ビザ申請理由に書いているのでそうはいきません。ティーバー氏の要望を真面目に聞くよりほかにありません。

せめて「823月の参加は予算上無理、833月以降の可能性をスタディするために周辺事情の調査をしている」ということに止めたいのですが、部長宛て公信に書きました通り、823月が予算上の問題だけであるなら、日本企業としてはティーバー氏の立場を考慮し、日本人会ならびに日本リビア協会に働きかけて資金を用意するので、ジェトロの参加を実現したい(ジェトロの専門的知識とノウハウを提供してほしい)と強く迫られました。

 

【4】トリポリ空港を発ってアテネまでの嘘のような話:

 

1】~【3】の手紙とメモを書いた時点では想像もしなかったハプニングがその後起こるのだが、ここからは40年前の記憶を元にまとめる。何人かの友人に何度か話してきたので、オリジナルの記憶に酒を飲みながら話した記憶が折り重なり、何が本当の記憶か混沌としている部分もあるが、記録がない中で何回も話しているから忘れずにハッキリ記憶しているともいえる。

 

・トリポリ空港まで丸紅・小川氏に送ってもらって出国カウンターでチェックイン。これでようやくひと安心。(その後何回かアラブでは同様の経験をするが)搭乗券に座席番号はなく、空いているエコノミー・クラスに早いもの順に着席する。すると大柄の白人女性アテンダントがファースト・クラスに空席があるので席替えするように言うのそれに従い、このままアテネまでの快適な空の旅を期待した。12日~15日まで毎日のようにLNに駆け込んで交渉してきた苦労がウソのようだった(その時だけだった)。

 

・機内アナウンスはアラビア語ばかりでさっぱり分からないが、ベンガジに一時ストップすることは分かっていた。飛び立って間もないが、もうベンガジに到着したらしい。しばらく機内に残されていたが、タラップを降りて行ったら、荷物車に置かれた自分のバッグを持って空港ビルに行けと言う。ベンガジでまた手荷物検査と出国手続きをするという。トリポリで出国手続きを済ませたはずなのにと思いつつも、乗客は全員炎天下の中スーツケースを引きずるように運んでいる。長蛇の列に並んで手荷物検査を受け、出国スタンプを押したパスポートを提示して、ようやく空港ビルから広いエプロンを駐機場まで戻るのだが、そこに待っているのはトリポリから乗ってきた飛行機とは違う。

 

・タラップを上がり機内に入ると、もう既に乗客が席を埋め尽くしている。ベンガジから乗った客も先に着席しているのだろうか、自分の座席がない。元々座席番号があるわけではなく、座席は早い者勝ち。搭乗者数は決まっているはずだろうから、どこかに自分の空席があるはずと思うが見当たらない。スチュワードは必死になって働いているが、まだ数人の席が決まらない。目と目が合ったので、どうしたら良いのかと問うと、なッ何と座っていた一人の少女を立たせて、そこに座れと言う。えー、それでどうするのかと思ったら、シートベルトをして座ったそこに少女を膝の上に乗せて両腕でしっかり抱けという。

 

・その少女は何歳ぐらいだったのか全く覚えていないが、10歳~12歳くらいだったように思う。同じ列の左側に家族がいるらしく、そちらに向かって困惑した顔をしている。子供が3人らしく、すでに夫妻はそれぞれに一人ずつ子供を抱っこしている。これは夏季休暇で帰国するエジプト人教師の家族のようで、父親は先ほどのスチュワードに猛抗議しているが、こちらは幸か不幸かアラビア語は分からない。席のなかった乗客もどこかに座席を確保したようで、いよいよ出発するらしい。

 

・一息ついて窓の外を眺めると、遠く空港ビル前に置かれたままの荷物車が見える。その上に特徴のある茶色の皮のバッグが見えるが、荷物車は飛行機の方に向かってくる気配もない。載せないつもりかと心配したが、まさに心配した通りに荷物は放置されたまま飛び立った。

 

・しばらくすると水平飛行になり、シートベルト着用サインが解除された。それを待っていたかのように、私の両腕の中にいた少女が席を立った。着陸時はどうするのだろうと思ったが、その少女は戻って来なかったので着陸時にどうしたかは知らない。とにかく自分の荷物がない。どうなるのだろうとそればかりが気掛かりであった。

 

・アテネでは、ターンテーブルに出てくるはずのない自分のバッグを最後まで待って、「手荷物紛失」の届をした。きっと次の便で来るはずだとベンガジからの次の便を確認する。アテネに1日に2便あるという。きっと夕刻の便で来るはずだと、とりあえず予約済みの市内のホテルにチェックインする。パスポートと現金と身の回りの小物(サングラスとタオル)はあるが、着替えも書類も全てバッグの中だ。

 

・その日16日は、夕刻にLNが到着するまで何もすることがない。観光に行くしかない。アクロポリスに向かった。記憶にあるのはパルテノン神殿だけ。6月中旬のアテネは暑かったが、とにかく歩いた。そして夕刻に空港に行った。ガードマンに事情を話して空港ビルに入りターンテーブルを見ていたが自分のバッグは最後まで出て来ない。翌日自分の乗ってきたLN便が到着するのと同じ時間にまた行って見るより仕方がない。

 

・次の日(617日)は早朝から近くの島までエーゲ海クルージングをした。着の身着のまま、LN便の到着のこともあるので遠出はできない。クルージングと言えるほどのものではなかったと思う。島の名前も覚えていないが、近くの島に行って帰って来ただけだが、楽しいエーゲ海の船旅であった。

 

・その足で港から空港に行くと、既にLNの午後便は到着済みで、ターンテーブルに乗客の荷物はなく、自分のバッグはどこにも見当たらない。前日に2回、これが3回目なので手荷物の係官とは顔見知り。客が引き取らなかった荷物はどうするのか聞くと、倉庫に行くと言う。自分のバッグはそちらに回された可能性はないかと言うと、倉庫に案内してくれるという。巨大な競技場のような倉庫に棚がずらっと並んでいる。世界中のどの空港にもこのような施設があるのだろうか。まだ今日の便のことだから新しい荷物の置き場所を確認させもらった後で、係官も暇だったのかその倉庫を一回り案内してくれた。そこには世界を旅して集まったと思われる数えきれない持ち主不明のトランクが並べられていた

 

・さて、また夕刻の便の到着まで待つしかない。しかし、自分のバッグが出て来ないことには着替えも出来ない。パンツとTシャツを買ったのかもしれないが記憶にない。とにかくバッグが来るのを待つより仕方がない。カイロ行きは18日午後1時出発予定だ。今日の夕刻の便で来なければ、カイロ行の便を変更しなければならない。

 

17日の夕方までどのように時間をつぶしたか記憶にないが、観光客が行く港の近くの裏通りの盛り場を歩いたと思う。まだ陽が高かったが、小さな居酒屋に入りビールを1杯飲んだ。そして勘定をしようとしたら、法外な値段を言う。たった1杯なのに円換算で万単位の値段だ。こうして外国人(特に日本人観光客)に吹っ掛けているのかと恐れも知らずに怒って言い負かし、当たり前の金額を払ったが、アテネがこういう所であるとは後で知った。

 

・そして夕刻、LNの到着予定時間に行くと、またもや既に便は到着しており、乗客の手荷物は既になくなっていたが、なんと我が茶色のバックが一つだけターンテーブル上をグルグル回っているではないか。やれやれ、これで予定通りに明日はカイロに向けて出発できそうだ。12日のトリポリ入りから17日のアテネまで、自分は何のためにここに来たのだろうかと考えたが、この経験はその後の人生で多少は役立つことになるのだから不思議なことである。

 

18日にカイロに入り、数日後にサウジアラビア(ジェッダとリヤド)、そしてクウエート経由でタイのバンコクに向かった。イラク、イラン、アフガニスタンの土漠からインド、バングラデシュ、ミャンマー、タイの緑豊かな大地を上空から眺めた時に、あぁアジアに戻ってきたと心から安心感を覚えた。

 

 

・戦前の旅行者に比べたら、いずれも大した話ではない。日本も昭和30年頃までは同じようなレベルであったし、それに比すると何の感動も怖さもないし、当たり前のレベルの経験であったと感じる。しかし、アラブの初体験は衝撃的で、これに慣れるのは並大抵なことでないと悟ると同時に、その後アジア各国での生活環境は実に快適で理にかなった(リーゾナブルな)ものであったと感じるのである。

 特に、ベンガジ発のLN便で経験した赤の他人の娘を膝に抱いて離陸するという経験は、自分の知る限り誰も経験したことのない前代未聞の経験であった。

同じく娘のいる(と言ってもその時の自分の娘は2歳くらいであったが)父親として、その娘の父親の怒りがよく理解できるし、まことに同情を禁じ得ないのであるが、こちらとてどうしようもないことであった。

 

 

写真:トリポリ市内(アルジェリア広場?)、緑の広場(現:殉教者広場)、街頭に貼られたビラ(4枚)

5】番外編:リビア異聞~カダフィ大佐とリビアの人々

 

➀不労所得を認めない

トリポリの日本大使館を訪問した時に商務担当官アシキ氏に会った。出身母体は聞かなかったが、外務省職員でもなく通産省出向者でもなかった。彼は、1週間前に今まで住んでいた市内アパートを退去せざるを得なくなり、大使館内に居住しているという。その理由は、トリポリ市内の複数の不動産を保有する者の2軒以上の物件保有を認めない(召し上げる)という命令があったためで、政府が建物を強制的に没収するのでそのアパートに住むことが出来なくなったという。富裕層の不労所得を認めないと言うのだが、賃借人の人権は配慮されないらしい。目的は、とにかく住民を退去させ物件を所有者から没収し、不公平を是正する事だという。何と乱暴な話だろう。

 

強制的な通貨交換

「旧紙幣廃止・新紙幣発行」は権力者の夢なのかもしれない。カダフィはある日いきなり、「今使っている紙幣(ディナール)は明後日から使えなくなる。明日のうちに銀行で新しい紙幣に交換せよ」という「触書」を回したと言う。急な触書で、しかも交換日が極めて短いのも(たった1日)異例だが、怖れるべしかな・・カダフィ、その程度の事では済まされない。

「ある人はポケットにディナールを入れて銀行に行く。ある人はバッグにいっぱい詰め込んで行く。ある人はトラック満載で行く」。そして銀行窓口で「はい!次」と次々に同額のディナール新札を手渡される。翌日からは旧紙幣はただの紙切れ。クレームをしようものなら武装したカダフィ親衛隊が有無を言わさず黙らせる。まだあどけない十歳代の少年兵である。これは犯罪ではないのか。暴力団のようなものであるが、国がやる分には犯罪ではないのか、無茶苦茶な話ではある。

 

国営ショッピング・センターと小売業

街を歩くと、多くの商店が金属製のジャバラの扉を終日閉めたままである。開いているのは、薬屋やわずかに靴・サンダルなどの履物店、裏通りにたまに見かけた装身具店は片付けを急いでいた。聞けば、大きな国営ショッピング・センターがオープンしたので、街の小売店は閉店しろと命令されたという。小売店は住居も兼ね、家族経営で代々続けてきてきたもので、おおむねジジババ、チチハハ、そして子供の親子3代が住んでいる。10歳にもなれば子供も家の手伝いをして、生活の糧を得ながら貯えたお金で不動産を購入してアパート経営をしたりしている。カダフィによればそれが怪しからんと言う。2軒以上の不動産(住宅)を持って不労所得を得ることがいけないということもあるが、どうも小売業者たちの家族の子供達が狙いのようでする。チチハハは国営ショッピング・センターで働かせ、子供達は兵隊として召し出させる、それが目的にようだ。

 

若者を兵役にあぶり出し、外国人を労働に使役するの

国境を閉ざし航空路を閉鎖して国交断絶・戦争状態にもかかわらず、同じアラビア語を話すからと、学校教師はほとんどエジプト人を雇っている。工場や建設現場は外国人に働かせて、都市の雑役は周辺国労働者を使役する。そしてリビア人だの若者は兵役に召集する。どうもこれがカダフィ式のやり方の様だ。

 

砂漠の民のパーティ

カダフィ大佐は砂漠の民ベトウィンの出身と言われる。町や文明を知らないものと言う軽蔑の意味合いもあるが、カダフィは「伝統に従い誇り高く独立した生活を営む人々」とべトウィンを誇りにしているようだ。

ある日トリポリの外交団にパーティの招待状が届けらえた。リビアの主権者カダフィ大佐の招待とあっては何が何でも参加せざるを得ないだろう。そこで各国大使を始めとする外交官たちは正装してして指定の場所に参集すると、そこから別の乗り物に乗り換えさせられ連れて行かられたのは砂漠の真ん中であったそうな。これは大使から直接聞いた話である。そこには沢山のテントが張られていて、あちらこちらの柵の中に羊がつながれている。何をするのだろうと思っていると、「今からベトウィン伝統の食事会を始めるが、ベトウィンのことをご理解いただくためにそれぞれにべトウィンのやり方で、ここにいる羊を捌いて砂漠の民の食事お楽しみいただきたい」と言われて固まってしまったという。話を聞いただけでこちらも固まってしまい、「それで大使は生きている羊を自分で捌いたのですか?」とも聞きなかった。


写真:トリポリ市内の商店(辛うじて開けていた2店)、ホテルの自室から撮影した風景、アテネ空港、パルテノン神殿、オリンポスの丘から見たアテネ市内、エーゲ海の島、エジプトのピラミッドとスフィンクス



【リビアで学んだこと】