帰国後の野生司香雪と信州・長野県


日本美術院会員による野生司香雪 帰国歓迎会

昭和11年(1936年)11月末に帰国後、インドでの香雪の偉業を称え、日本美術院(⇦リンク)の主要な会員による帰国歓迎会が開催されました。壁画揮毫の任を受けてから帰国するまで足掛け5年間(昭和7年7月~同11年11月までの4年4ヶ月)の長期にわたる大仕事でした。

出所:「野生司香雪~その生涯とインドの仏伝壁画~」(壁画完成80周年を記念して)

著者:溝渕茂樹、中村義博

発行:生田要助

発行所:(株)イクタ

    野生司香雪顕彰会

発行日:2016年12月8日


長野・善光寺の雲上殿の壁画

 昭和15年(1940年)、野生司香雪は長野市の善光寺雲上殿(納骨堂)の壁画制作を依頼され、準備に取り掛かりました。昭和18年(1943年)に香雪は単身で長野に移り住み、昭和22年に雲上殿の壁画を完成させます。香雪62歳の時のことです。昭和27年に山ノ内町渋温泉の不動山荘で約20年間を妻とともに過ごし、昭和48年に88歳で病没します。その間に、昭和23年に香雪は生まれ故郷の香川県に発足した香川美術会の会員になり香川県にも多くの作品が残されていますが、在住していた長野県内にも沢山の作品が残されている理由がこれでよく分かります。

 「牛に引かれて善光寺参り」は古くから伝わる有名な逸話ですが、インドの聖白牛を善光寺に招来する計画が持ち上がり香雪はこれに協力しました。ビルラ財閥の支援もあり、仏教渡来千四百年の年(昭和26年)に3頭の白牛が横浜港に上陸、上野動物園(検疫)の後、浅草浅草寺までパレードをして一般に公開。その後上野駅から信越線で小諸駅まで移動、布引観音に到着。そこからはトラックに乗り換えられ、大歓迎を受ける中を長野市に到着しました。翌年、日本美術院同人の奥村土牛が白牛を訪ねてきたが、香雪は宿舎の世話をするなど応接しました。奥村土牛が描いた「聖牛」は院展に出展され、それが土牛の代表作の一つとなりました。

善光寺の雲上殿

 

下段左の写真:案内板によれば、雲上殿の完成は昭和24年とありますが、香雪の描いた壁画の方が早く完成していたようです。仏画家の野生司香雪による善光寺縁起の壁画が描かれていることが和英文で記されています。

 

 

 

 

 

下段右の写真は壁画「善光寺縁起」の一部です。


福井県・永平寺に保管されているサールナート壁画の原寸大の下絵について

 何故に福井県の永平寺に野生司香雪がインド・サールナートで描いた仏伝壁画の原寸大の下絵(下図)が残されているのだろう。

この下絵の来歴を知ると、これは単なる偶然ではなく、「仏縁」なのだと、また人々に繋がっていく善意の連鎖に心打たれずにおられません。

 野生司香雪は、インドから帰国する時に持ち帰った原寸大の下絵(下図)をどうすべきか考えていました。そんな折、昭和22年のある日、善光寺からさほど遠くない曹洞宗昌禅寺の佐藤賢乗住職が訪ねてきて、数年先の永平寺高祖大師七百回遠忌に合わせて大師の肖像画揮毫の依頼をしてきました。この時に下絵のことを聞いた佐藤住職は永平寺への下絵献納を思い付き、香雪と永平寺双方の了解を取り、それが実行に移されることとなりました。

 昭和23年の春四月に下絵の献納式、開眼供養が執り行われました。4年後の昭和27年に高祖大師の七百年遠忌で下絵も公開されましたが、その2年後には再び倉庫に収納されてしまいました。それから20年の歳月が経ち、再び人々の前に披露される連鎖の縁が始まりました。長野県の宮川洋一氏(現在は野生司香雪画伯顕彰会会員)はインド旅行中にサールナートで香雪の壁画を見る機会があり、帰国後に香雪の事績を調べていたところ偶然、長野県内で下絵が表装されたという地元紙の記事を読み、香川県文化会館に知らせるとともに香雪関係資料の有無を問い合わせてきたのです。その時に学芸員であった溝渕茂樹氏(現在野生司香雪画伯顕彰会事務局長は早速永平寺を訪ねたところ、大庫院大広間に原寸大の下絵24枚(高さ4メートル強、長さは計44メートルとなる)の掛け軸がずらりと掛けられているのを見て圧倒されたそうです。

 南澤道人師(現永平寺副貫主)は長野県出身で昌禅寺の佐藤住職の下で修業、子弟の関係にありました。その時は香雪の下絵と直接の関係はなかったものの、香雪の下絵が本山に献納された時に対面していました。南澤師は昭和58年に副寺となり、気になっていた下絵を本山で探したが、行方不明。ようやく元の倉庫で見つけて、保存修復のために再び表装されましたが、それが新聞で紹介され、それを宮川氏が読んで前述のように香雪の生まれ故郷の香川県文化会館に繋いできました。

 先ずは永平寺の下絵を中心に香川県で展覧会を開催する計画が立てられ、昭和62年(1986年)に香川県文化会館で回顧展「東洋の心・インドへの熱き想い~野生司香雪展」が開催されました。仏教哲学・仏教学の世界的権威である中村元(はじめ)博士(⇦中村元東方研究所にリンク)は記念講演会において、香雪の「釈尊一代記壁画の意義」について講演され、香雪の偉業は日本画壇と日本仏教界にとって快挙であると称えられました。

 

展示会で「降魔成道」の図を見上げる中村元博士と、左に南澤道人師、その左の白スーツは関公男氏(香雪の次男)。ここでは8点の下絵が展示されました。長野県でも展覧会の開催可能性を探ったが、その時には実現できませんでした。しかし、信濃毎日新聞社はこの回顧展図録を元に本格的な図録集「野生司香雪 仏画の世界」を刊行しました。


写真:2019年11月28日 第1期修復工事安全祈願

左写真:参列した関係者(前列左から2人目:南澤道人老師、その右:溝渕茂樹氏、2列目南澤老師の後ろ:シーワリ―師、右端:木島隆康名誉教授、3列目:彩色設計・久安敬三氏(あごひげ)、シーワリ―師の左後ろ:彩色設計代表・小野村勇人氏)

右写真:南澤老師、シーワリ―師


長野市篠ノ井 龍眼山圓福寺の野生司香雪の作品

 長野県上田高等学校関東同窓会の白井透先輩(60期)が、信州にかかわりのあるお話だからと、野生司香雪画伯のことを上田高等学校の藤本光世元校長にご紹介いただきましたところ、なんと先生がご住職をされている長野市篠ノ井の曹洞宗 龍眼山圓福寺(⇦ここからリンク)に先代のご縁で野生司香雪画伯の作品を保有されているとのご連絡をいただきました。「天女」と「鳳凰」の天井絵が2枚、サールナートの壁画のミニ版ともいえる「釈尊一代記」の額縁に入った絵が7枚ありますとの事で、ここにご紹介させていただきます。これも仏縁であると、新たなご縁が広がりましたことを心より感謝申し上げます。

それにしてもなんと美しい天女でしょう。まさに作者・野生司香雪のピュアな心を表しているものと思われます。


信濃毎日新聞にインドの壁画修復事業のことが紹介されました。

 昭和61年1986年)に本格的な図録集「野生司香雪 仏教の世界」を刊行したことのある有力な地方紙・信濃毎日新聞は、四国・香川県の野生司香雪画伯顕彰会がインド・サールナートの壁画修復事業をスタートさせることを紹介しました(2019年4月13日)。この記事の中に、香川県出身の野生司香雪が長野県と深い関りを有していたことが簡潔に記述されています。

 その頃ちょうど、10月末のインド大使館講堂での「野生司香雪フォーラム」開催の準備を本格的に始めました。そして11月末から約20日間、第1期修復工事を実施しました。

その他の項目は https://nosu-kosetsu-tokyo.jimidofree.com に移管しました。

「悲しみのヤショーダラ妃」の屏風絵

 

 

 

野生司香雪のサールナート仏伝壁画の下絵を曹洞宗大本山永平寺に献納するのを仲立ちした長野県の昌禅寺に、野生司香雪作の「ヤショーダラ妃」の屏風絵が残されているとお聞きしました。

 

この屏風絵は信濃毎日新聞社刊行「野生司香雪作品図録」に掲載されています。

20220524 
News: Professor Siddharth Singh will be the Special Advisor to the Project.
前のインド大使館ヴィベーカナンダ文化センター館長のシッダルト・シン教授(バラナス・ヒンドゥ大学)が壁画修復計画の特別顧問に就任予定です。
Professor Siddharth Singh,
Ex-Director,
Vivekananda Cultural Centre,
Embassy of India, Tokyo, Japan,
&
Professor &  Former Head,
Department of  Pali & Buddhist Studies,
Banaras Hindu University (B.H.U.),
Varanasi-221005