「台湾を築いた明治の日本人」 渡辺利夫著(産経新聞出版)

 

 

20191月~12月まで月刊「正論」に連載された「小説 台湾~明治日本人の群像」を基に加筆・修正され、装いも新たにノンフィクション・ノベル。著者は拓殖大学の前総長・元学長。丹念に調べ上げた歴史的事実をもとにした経済学者の小説です。

  
この本の中の第2章「蓬莱米が起こした『緑の革命』」は、20年以上の歳月を蓬莱米開発に捧げた磯栄吉博士との思いがけない縁により、後にインドに蓬莱米を導入・栽培に成功することになった杉山龍丸の話です。インド北部の砂漠の緑化に取り組んでいた龍丸は、インドの飢饉・飢餓を目の当たりにして、台灣と同じような緯度にあるインド・パンジャブ州に、台湾で収穫量増に成功していた蓬莱米を導入しました。龍丸が台湾とインドを結んだ縁は、実は龍丸の祖父・杉山茂丸(明治政界の大御所)よるインド・台湾の両国との深い縁が龍丸にも連なっています。茂丸は孫文の活動を支援したことが知られており、また日本に亡命したインドの独立の志士ラース・ビハリ・ボースとも親交がありました。不思議な縁が次々に繋がるものだと感動します。

 磯永吉博士・末永仁(めぐむ)博士が、台湾で何十年も研究に取り組んでこられた蓬莱米(ジャポニカとインディカの掛け合わせ)は台湾の食糧事情を飛躍的に向上させました。末永仁と磯栄吉の他に、八田與一(烏山頭ダム)、児玉源太郎(4代台湾総督)、後藤新平(総督府民政長官)等々の台湾で活躍した人物がこの本の主人公ですが、「インドのグリーンファーザー杉山龍丸」と蓬莱米を、台湾の物語の糸口としているところがユニークです。


2020年 サライ3月号「奇想天画異」(第51話)五木寛之

「サライ」3月号のコラム「奇想転画異」(五木寛之)に杉山龍丸さんの話が紹介されていました。その中に、「夢野久作と杉山三代研究会」会報6号についても記述されています。

来月14日に第8回の研究会が福岡・筑紫野市で開催されます(コロナ感染防止の観点から中止)

家・夢野久作を含む代々の杉山家の人々と、この研究会のことは世にもっと知られてもいいと思います。



詩聖ラビンドラナート・タゴールと高良とみ・高良武久について

(このタイトルで何故「杉山龍丸」の項にアップされるか、最後まで読んでいただければ判ります。)

「詩聖ラビンドラナート・タゴールと高良とみ・高良武久について」             

 

《写真の年月》

 

最近、高良とみの「写真集」(2003年発行、長女真木・次女留美子が監修)を見ました。そこにはタゴールと高良とみの写っている写真がありました。写真説明に「藤山雷太邸で、1924年」とあるのですが、確認のために調べてみましたが、これは「1929年、大隈侯爵邸」(518日)にて撮られたものです。「日印協會會報(46号)」(1929年発行)にはそのように記録され、この時のタゴールの講演記録も掲載されています。当時の「日印協會會報」の編集者である広瀬又六氏が写真最上段に写っていますが、タゴール講演記録とともに「会務」に詳しく記述されています。どちらでもいいようなものですが、将来の「タゴール研究者」や「高良とみ研究者」が混乱しないように事実関係を明らかにしておきます。

 

写真集「世界的にのびやかに 高良とみの行動的生涯」(2003年)

日印協會會報(第46号)(1929年12月)


《タゴールの訪日》

タゴールの訪日は5回あります。第11916年(大正5529日~92日)、第21917年(大正6年)1月末~2月中旬、第31924年(大正13年)6月、第41929年(昭和4年)322日~328日、第51929年(昭和4年)510日~65日です。上記日印協會會報(46号)には、19295月のタゴール訪日を第3回目と記しているが、第2回、第4回は滞在期間も短く、日印協會として歓迎会・講演会などを開催しなかったのでカウントされていないと想像されます。日印協會で枢要な役職に就いていた渋沢栄一関係の記録でも、191672日、同13日、816日、1924610日、11日、12日、また192963日に会食、茶話会、講演会等でタゴールと接点があったことが記されているものの、第2回、第4回のことは見当たりません。因みに、第1回訪日の時にタゴールは、タゴールの親戚だと騙って(タクールを名乗って)日本に密入国したラース・ビハリ・ボース(インド独立の志士=いわゆる中村屋のボース)に会いました。

 

《和田富子:1896年生~1993年没》

和田富子は富山県生まれ、兵庫県立第一女子高等学校を卒業、1916年のタゴールの第1回訪日時は日本女子大学の学生でした。その年の軽井沢での大学修養会にタゴールが講師として参加、それから和田富子はタゴールに師事し、その後1917年から5年間の米国留学(コロンビア大学、ホプキンズ大学/心理学)を経て、帰国後1923年には九州帝国大学医学部助手、1927年日本女子大学教授に就任します。1929年当時は、和田富子(高良とみ)は日本女子大学教授でした。福岡・九州帝国大学から上京した高良武久(後に森田療法の後継者として知られる)と2910月に結婚します。

 

高良とみは戦後初の参議院選挙に出馬し、2期(12年)議員を務め、日本婦人団体連合会設立に関わり(副会長)。上記の縁により戦前からタゴール協会会長を務め、タゴール生誕120周年を記念して1981年に軽井沢にタゴール像を建立しました。。

 

上記の写真に戻ると、19295月のタゴール訪日時に講演会通訳を務めた高良とみ(当時は和田富子)は、その時点では日本女子大学教授(1927年就任)でしたが、高良武久と結婚する少し前です。それ以前の1924年のタゴール訪日時も和田富子は通訳を務めていますが、この年6月の訪日では、タゴールは長崎から上陸、雲仙(別府と記されているものもあるが間違え)、福岡、下関、神戸、大阪、奈良、京都を経て東京へ移動したと記録されています。和田富子は1923年に米国留学から帰国、1924年は九州帝国大学医学部助手の時代でした。

 

 

《高良武久:1899年生~1996年没》

高良武久は鹿児島県生まれ、1924年(大正13年)に九州帝国大学医学部を卒業し精神科に入局、精神病学講座教授として就任した下田光造により1925年に森田療法に出会うことになりました。1929年(昭和4年)に九州帝国大学医学部の専任講師から慈恵会医科大学講師(根岸病院医長を兼務)に転じ、森田正馬(まさたけ)の下で研究生活を送ることとなりました。そこで、かねて九州帝国大学で知り合い交際していた和田富子と192910月に結婚しました。それはタゴールの最後の訪日の4か月後のことです。高良夫妻には、3人の子供がいます。1930128日に長女・真木が誕生(画家・20112月没)、次女・留美子(詩人・1932年生~)、ならびに18歳で早世した3女・美世子(1968月生~1955年没)は高良とみがインドを訪問しガンディーに面談した1935年にお腹の中にいたそうです。高良真木・高良留美子姉妹は、高良とみ自伝「非戦(アヒンサー)を生きる」(1999年)、「高良とみの生と著作」(全8巻)(2002年)、写真集「世界的にのびやかに 高良とみの行動的生涯」(2003年)等を編纂・出版しました。

 

話は変わりますが、経済学者としての領域を超えた異色の名著(開高健賞受賞)「神経症の時代~わが内なる森田正馬」(渡辺利夫著、19964月発刊)は、冒頭に著者が神田の書店で高良武久著「人間の性格」に出会うところから始まります。私はインドとタゴールの関係等から高良とみの名前はよく承知していたし、渡辺先生の著書から森田療法後継者としての高良武久の名前は聞いていたのに、つい最近まで二人が夫婦であったことを全く知らず、二人の出会いが1923年~27年の九州帝国大学医学部精神科であったことに驚きました。渡辺先生によれば、高良武久の遺族にお会いしたことがあり、「父が病床で最後に目を通した本が『神経症の時代』であり、ずいぶん喜んでいた」という言葉をいただいたそうです。その3年前に高良とみは他界していました。

 

《高良とみと杉山龍丸》

高良とみはインドの砂漠を緑化するのに貢献した杉山龍丸と交流がありました。高良とみは自ら「日印文化協会」を設立しようと画策していたことがあると言われています(日印協会元専務理事三角佐一郎氏談)が、それは中村元博士等が設立した「日印文化協会」のことではなかったと思われる。杉山龍丸が1955年に設立した国際文化福祉協会(福岡)に高良とみが関わっていたという記録はないが、1972年の龍丸の「日印文化福祉協会」設立を支援していた可能性はあり得ると思います。高良とみは杉山龍丸の参議院議員会館での報告会「世界の砂漠緑化について」(1980年)の開催を支援、また龍丸がインドでの活動が制限されていた時期に中国の砂漠緑化の相談を持ち掛けるなど、龍丸と接点があったことがいくつかの書簡の中に見られます。杉山龍丸の子息・杉山満丸さんによれば、高良とみが生前親しくしていた中に杉山龍丸がいることを高良とみの死後、娘の留美子さんから連絡をもらったことがあるとのことでした。

 

最近、刊行された渡辺利夫著「台湾を築いた明治の日本人」の第2章で、インドの砂漠緑化と台湾で開発された蓬莱米をインドに導入するのに尽力した杉山龍丸のことが詳しく紹介されています。渡辺先生は、森田療法の後継者である高良武久と元参議院議員・高良とみが夫妻であったことはさすがに承知されていたようです。しかし、二人の出会いが九州帝国大学医学部精神科であったことや高良とみが戦前インドのタゴールと師弟関係にあったことや戦後に杉山龍丸と交流があったこと等々、渡辺先生が別々の書の中に名前を挙げられた「高良武久」と「杉山龍丸」が、歴史の時空の間で微妙に絡み合っていることを知り驚きます。

 

《九州帝国大学医学部と「ドグラ・マグラ」夢野久作》

和田富子が九州帝国大学医学部精神科(研究室)に在席していたのは1923年~27年(27歳~31歳)ですが、初の女性の帝国大学教授就任が取沙汰されていたものの、東京帝国大学教授・九州帝国大学教授(併任)の美濃部達吉の強い反対(理由は男女差別)により実現せず、1927年に母校・日本女子大学教授に転出します。一方、高良武久は同医学部を卒業して精神科に入局したのは1924年~29年(25歳~30歳)で、前述の通り高良武久が上京した192910月に結婚します。

 

この時期の九州帝国大学医学部精神科に関連して、杉山龍丸の父・夢野久作が代表作「ドグラ・マグラ」の原型となる「狂人」を発表したのが1926年、その頃から温め始めた「ドグラ・マグラ」の構想は約10年の歳月を経て、1935年に発表されました。その小説の舞台はまさに「九州帝国大学医学部精神科」なのです。後に龍丸を応援する高良とみが在席していた時と場所ですが、今のところ何の確証もないものの、龍丸の父・夢野久作は結婚前の和田富子と高良武久のことを知っていた可能性があるのではないかと、そんなことを考えながら、とりあえず「神経症の時代~わが内なる森田正馬」と「ドグラ・マグラ」を再読し、そのうち国会図書館で高良とみ関係の書籍を読んでみよう思います。

 (宮原豊 202074日)

 

 高良とみさんの次女・留美子さんが2021年12月12日、88歳で亡くなられたと報じられました(12月22日)。哀悼。


高良とみ(旧姓和田富子)は日本女子大の学生の時に詩聖タゴールに学び、日本女子大教授に。タゴール訪日時には通訳をされ、戦後は参議院議員を2期務め、日本タゴール協会を立ち上げました。詩人・高良(本名竹内)留美子さんは高良とみの著作をまとめ全集を出版しました。